三月下旬。
ベランダの窓辺に腰掛けて、冷えた缶ビールのプルタブを引いた。
プシュッと軽快な音と共に、パンのような香ばしく甘い香りが弾け漂ってくる。
ゆっくりと口へ運び、確かめるように味わう。
舌を僅かに刺激する泡にアルコール特有の刺激臭。
甘さを包み込む上品な苦味に自然と口角が上がる。
月明かりのもと、静かに酒を楽しむのが最近の日課となっていた。
「さて……」
傍らに置いておいた一冊のノートを手に取る。
これが今日の肴。
何の変哲もない、罫線が引かれただけの質素なノート。
けれどもこのノートは、かけがえのない僕の半身ともいえるものだ。
無地の表紙をめくると、書きなぐられた言葉の数々が目に飛び込んでくる。
社会の荒波に溺れないように必死に泳ぐ毎日。
あの頃の僕は、そのなかでいつしか泳ぎ続ける理由を忘れてしまった。
波に呑まれ水底まで沈んでいく。あの感覚を思い出すと今でも胃が重くなる。
「……」
押し流すようにビールを口に運ぶ。重く冷えた胃が仄かに温まるのを感じた。
目の前は暗く、息をすることすら苦しくて。
泳げなくなった自分をよそに、周りはどんどんと掻き分けて進んでいく。
周囲に置いていかれる焦り。
助けてくれない社会への苛立ち。
自分の中に溜まった澱のような不安が、さらに僕の呼吸を遮った。
そして、ある日をきっかけに、
――もう、いいか。
終わりにしてしまおう。
そう思った。
その日、朝早くから響き渡る目覚ましのベルに瞼を開いた。
「……」
今日も、仕事だ。行かなくては。早く、起きなければ。
身体を起こそうと右腕をつく。が、上手く起き上がれない。腕に、力が、入らない。
乾いて硬い眼球を動かして右腕を見る。
何度か指を握っては閉じるのを繰り返す。大丈夫。ちゃんと、動く。
改めて右腕をついて起き上がろうとする。
けれどもやはり、上手くいかない。
その間も目覚ましのベルが鼓膜に突き刺さる。
――まずは、目覚ましを、止めよう。
右手を時計へと伸ばす。
まるで蛸のようにぐにゃぐにゃと這いずる腕でどうにかベルを止めた。
そこで、気付く。
今、僕は、息を、していない。
途端、喉がひとりでに締まる。
胸が、肺が悲鳴をあげ始める。
「かっ……あ、けっ」
無我夢中に足が空を掻き、両の手が首を掴もうとする。
耳が熱を持ち始め、目の前が滲みだす。
「あっ……い、や……だ」
漏れた声によって、口の端から涎が零れ落ちた。
涎が頬を伝う。
そして――
「あっ……ぶ!」
身体がびくりと跳ね上がり、目が覚めた。
目覚ましのベルが金切り声をあげていた。
「……」
激しく上下する胸に右手を置く。右手の温もりが伝わる。
「夢……?」
息を整えながら、ゆっくりと起き上がる。
「はは……ひへへ」
変な笑いが込み上がってくる。
そうか。夢だったのか。
安堵して肩の力が抜ける。
しかし、心の奥底から冷ややかな声が聞こえてきた。
――夢じゃなければよかったのに。
「……もう空か」
手の中の缶を見る。こうして考えごとをしていると、酒が進んでしまう。
「ゆっくり楽しみたいんだけれどな」
酔いからか、独り言を呟きながら冷蔵庫へと向かった。
少し覚束ない足取りで辿り着いた台所で換気扇を回す。
冷蔵庫から新しい缶を取り出して、もう片方の手でタバコを取り出し火を点ける。
「いやぁ、あのときは本当にヤバかった。病んでた」
緩く笑いながら、タバコをふかす。
もしもあのままだったら、きっと僕は生きてはいなかった。
一人で酒を嗜む楽しさを知らなかった。
たった一冊のノート。それが僕を救ってくれたのだ。
悪夢を見た日から、布団に入るたびにうなされるようになった。
それが恐ろしくて気絶するまで電子の海に潜り続ける日々。
既に仕事はおろか、外に出ることもなくなっていた。
僕を終わらせるための情報収集として動画を見ていたとき。
動画の途中でとある広告が挿し込まれた。
それは、よくある自己啓発系の動画でいつもなら鼻で笑って消してしまうような広告だった。
けれども、最初の一言。それが僕の指を止めさせた。
『苦しいなら、とにかく書け』
画面には初老の白髪混じりな男性が映っていた。
老いを感じさせない強い声が耳を震わす。
『皆ね、辛いとか苦しいとか、言葉にはするんだけれどそれじゃ駄目なんだよ』
『言葉は、ほら。耳で聴いちゃうでしょ?それでどんどん自分に刷り込んでいっちゃう』
『嫌なことはキチンと自分の中から取り出さないと。そのためにはノートに書くのが一番なんです』
画面越しに僕を見る目は穏やかに澄んでいる。
『ノートに書いて、苦しい感情を一回自分の外に出して、俯瞰する。それが大事』
『案外それだけで心が軽くなったりするもんですよ』
語り終えた彼は、皺が刻まれた顔に笑みを浮かべた。
「……」
動画の広告は、視聴者の興味に合わせて挿入されると聴いたことがあった。
だからそれもきっと、そういう動画を見続けたから現れた防止機構の一つだったのだろう。
普通の人なら気にもとめないありがちな言葉の羅列。
しかしそのとき、それは僕の心に確かに響いた。
着の身着のまま家を飛び出し、コンビニでペンとノートを買う。
背広や作業着を着込んだ他の客から変な目で見られたが、気にもならなかった。
そして家に帰るやいなや、靴を脱ぐこともなく玄関で筆をとった。
湧き上がる激情を、思い浮かぶままに書きなぐる。
腹の奥を掻き混ぜて、沈んだ澱を掬い出す。
そうして出来上がったものは、文章というよりも呪詛といったほうが似合う、酷いものだった。
文法も漢字もぐちゃぐちゃで技術の欠片もなく、きっと目を通すだけで吐き気がするような書物。
書き連ね続けて、いよいよノートの最後の頁まで書き切る。ペンが指から落ちる。
夜は明け、日差しが差し込み始めていた。
荒い息を吐く。
胸辺りがもぞもぞと居心地悪そうにするのを感じる。
くすぐられたときに似ていて、どうにも落ち着かない。
けれども、どこか心地よい。不思議な感覚だった。
思えば生まれてこの方、根気や努力とは程遠い選択をしてきた。
子どもの頃は、友人が自転車を乗り回しているなかで、一人走って追いかけていた。
部活のレギュラーを目指して自主練習をする後輩を横目に、足早に帰るような学生だった。
積み重ねる大切さは理解していたし、努力を続ける彼らのことを尊敬していた。
しかし、同時に努力する彼らのことが理解出来なかった。
歯を食いしばって、目に涙を浮かべながら苦行に耐える。
どれだけ努力をしたところで、手に入るのは僅かばかりの技巧だけ。
どれだけ頑張っても夢を叶えることができるのはほんの一握りの才能人だけ。
そんな分の悪いギャンブルに人生を賭ける意味が分からなかった。
辛いのであれば、しなければいい。
努力なんてしなくても、死にはしない。
そうやって言い訳ばかりして、彼らを貶し続けた。
本当は努力が出来る、彼らが羨ましかった。
……妬ましかった。
けれども、今。初めてやり遂げることができた。
人から見れば大したことではないかもしれない。だけど、僕にとっては偉業とも呼べるものだった。
気が付けば、涙が溢れていた。
涙が頬を伝う。
その日、僕はようやく彼らとともに歩む資格を得た。
二本目が空になった。
三本目に手が伸びそうになるが、我慢する。
肴が無いまま飲むのはもったいない。
「……寝るか」
明日も仕事がある。
空っぽだった灰皿は吸い殻が積もっていた。