始めのはじめは一(ハジメ)なり -4ページ目

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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本能寺の変がおきた天正10年6月時点で、織田軍の主な家臣たちは

担当する各方面に出張し、交戦中でした。
信長の最も近くにいる有力家臣は光秀ただ一人という状況で、

しかも上洛してきた信長にはわずかな供廻しか護衛に

着いていませんでした。
信長を討つのに絶好の条件が揃ったところを逃さず光秀が謀反を

おこしたというのが「突発説」です。

以前から計画を立てていたわけではなく、たまたま現出した恰好の

状況に乗り実行したので「突発説」と言われています。

 


「野望説」や「怨恨説」でも突発的にやって来た状況を一因に

加える人もいますが、「突発説」では偶然に重なった要素が光秀に

謀反を決意させたとします。
この説は小説家が好んで取り入れるようで、多くの小説に

書かれています。

 

 

本能寺の変がおきた後、明智軍は山崎で羽柴軍と戦うことに

なりますが、光秀側に加担する有力武将は多くありませんでした。

光秀の盟友細川藤孝や配下の筒井順慶は光秀には付かず、

中川清秀や高山右近などの摂津衆は秀吉方に付いて光秀を

攻撃する側に立ちました。

 

 

謀反をおこすにあたり根回しをしておかなかった、つまり光秀の

突発的な行動だったとみることもできますが、

本当にそうなのでしょうか。

信長を斃したとして、その後のことを考えておかないのであれば

謀反をおこす意味がありません。その後のことはどうでもよく、

ただただ信長を討ちたかったというのでしょうか。
一族もろとも滅んでもいいと思うほど刹那的になっていたとは、

とても思えません。

 


突発説は、信長が討たれたというその一点だけに注目し、

偶然討てる機会があったから討ったとしているだけの乱暴な説です。

 

 

 

 

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