「うちなーんちゅ」という「しまくとぅば」(沖縄、島言葉)
方言がよくわからない。
地名もわからない、読みが難しい。
西原==にしはら ニシバラ にしばる(これは鹿児島読み?)
西は「入り」(日が沈むから)だからイリバラじゃないのか?というとそれはナイらしい。
わからないわーー
日本へ返還だか移動になったんだかわからないけど、琉球が沖縄になった意味もわからないし。
とっても難しい、オトナの事情もあるし・・・
言葉は古今和歌集だか万葉集みたいな感じもするし。
日常語も、いろいろ混ざってる。中国やらカンコク、台湾・・・
中国ですら、国語がおおまかに4つあり、部族で細く分かれたら?それこそ・・・津軽弁と博多弁くらいの細かさで分かれ、4つも、お互いにまったく混じらないという・・・それが沖縄へ・・・もうわからん。
中国読みやカンコック風も琉球アレンジされてて、語尾の変換がなんとなくわかるようなわからないような。
そして一番わからないのが「自分が、来るから」というもの。
自分って誰?
来るって、私はどこにいるの?
あなたは今どこ?
私のヨーグルト脳では理解できない。せめて杏仁豆腐なら。そしてイチゴソースがあれば・・・
わからない・・・
いいんだ。わからなくて。
私は隣人の好みも思考も理解できなくたってそれはしかたがない。
ウヘヘと笑って流していく。
こちらにゴミが飛んでこない場合はそれでいい。
時々、目に細かなゴミが入ることもあるから。
失くしたものや行き違ったものは、もう忘れよう。
あの時、どうだったとか、こうしてたら、とは一切考えないで、今日は今日の風に吹かれて。
とんでもなく、大きな間違いでなければ、細かいことはそれでいい。
失くしたものは、最初からココになかったもので、たまたま、ココに存在したけれど、それはたまたま・・・
記憶違いや、性格の違いや読み方や習慣は、先祖や親がどうの、兄弟や友達が・・とその原因を探りたいけど、みんな、たまたま・・・なんだよね。
そんなに幼児期の記憶や前世の記憶や祖父母の接し方や両親の行状が、本人の性格や生き方に作用したとしても、それらはわずかな誤差のもので、すべて「本人が作り出して持っているもの」であり、ヨーグルトは杏仁豆腐にはならない。
成分がそもそも違う、製法も違う。
自分は、自分で作りだした過去に生まれて現在を生きて未来を創っていく。
そこには自分しかいない。
誰の影響もない、自分が創り出した未来。
現在は過去からの贈り物。
未来も自分で。
なにか、現象があり、それを過去の誰かのせいにしようとしても、今の自分は自分が好きで選んだもの。
自分以外のなにものでもない。
祖父母がいくら医者にしたくとも、両親が大学費用を捻出できたとしても、医者にはならなかったと思う。
血を見るのがイヤだから。
病人なんか見たくない。
弱ってる人なんて見たくない。
だから医者にはなれなかった。
誰のせいでもない。
今日の私は昨日からの私。
未来も今の私がそのまんま。
私で生きていくから、あなたもあなたのままでいて。
それでいい。
しかし琉球はなぜ、流れる球だったのに、いつのまにか大きな輪になったんだろう???
そこには何か政治的な考えが垣間見えるが。
ま、いっか。