メメント・モリっていうのはヨーロッパ中世の標語?で「死を想え」という事だったと思います。

 

それ自体はいいことないいことなんですが、私は少し死というか死者を想いすぎ、のような気がしてきました。

 

 

いや、三浦春馬くんのことなんですがね・・・。

 

先週土曜日、もう脳天をカチ割られるくらいの衝撃を受けまして、以来、落ち込み続けている状態です。

 

朝起きるたび、「三浦春馬が消えた世界」に目覚めることの虚しさを噛みしめ、寝る前に「ああ、夢であってくれますように」と祈って寝る生活。

 

思えばマイケル・ジャクソンくらいから、やれデヴィッド・ボウイ、やれピート・バーンズ、やれプリンス、やれ志村けんと、死を悼んでばかりの「忙しい毎日」なんですよ。

 

その中で一番ひどいものとしては・・・

 

私は某アメリカ人俳優のファンで、彼が落ちぶれているのをいいことに、SNSで繋がってメッセージまで書き、個人的にビデオを送ってもらったりしてたくらいなのに、不義理にもロクな返事を書かず(落ちぶれているのをいいことに)、そうこうしているうちにその俳優さんが突然死してしまった、という出来事がありました。

 

ある日「追悼アカウント」になっていた時の衝撃ときたら・・・。

 

もうここに書きたいくらい素晴らしい人だったんですけどね、それこそ天使でしたよ、彼もまだ若くて。

 

マイケルもだけど・・・。

 

 

まあそれらは置いておいて、嗚呼マイケルの死がが2009年ですから、もう10年以上私は「追悼に忙しい」わけです。

 

ちょっと・・・自分でもオカシイんじゃないだろうか、と思えてきました。

 

いくらなんでもメメント・モリすぎるだろう、私(笑)

 

だいたい、「好きな有名人」なんていくらでもいて、それぞれ高齢化してきているのだから、この先、「追悼生活」はさらに激化していくような気がするんですよね。

 

それでいいのか?!

 

あの人も死んだ、この人も死んだ、悲しい悲しい、と言っている間に自分の人生が終わる・・・それでいいの?

 

流石にちょっとズレている気がする。

 

もっと現実を見つめるべき、というか「そもそも彼らの人生に私は存在しなかった、影も形もなかった」ということを、しっかり自覚したほうがいいですよね。

 

「魂の交流」というか「相互に愛を交わすこと」をもっと大事にしましょう、というか。

 

「一方的にファンでした」なんて、はっきり言って、人生の根幹部ではないはず、なんですよ。

 

それよりは、身近に居て、自分が愛せる人、愛すべき人をしっかり愛して、向こうからも愛してもらったほうが「堅実」な気がする。

 

堅実というか「健全」。

 

ともすればファンタジーのほうに強く心惹かれてしまうのですが、地に足つけるべきだと思うんです、何事も。

 

 

と、いいつつも、やはり三浦春馬君は・・・。

 

死を選ぶほどに、この世は彼にとって辛かったんだな、そんな彼の苦しみなど何も知らずに、みんな勝手に応援だの期待だのしてたんだな、と思うと(失礼だけど)不憫でたまりません。


「屈託のない笑顔」やポジティブな言葉を真に受けて。

 

そして・・・あんなに輝かしい人が、最後に、ひとりぼっちで、あの美しい首に縄をかける、それを想像してしまうと、もう居たたまれない。

 

・・・こんなことがあっていいんでしょうか?

 

打ちのめされています。