(題名の続き(笑))ってみたのと、あと、648臨目と649臨目!
「みかんせい人的書道論〜暫定版〜」
かつての私は、書道界という古いシステムの停滞に違和感を覚え、自らの技量が上がるにつれて肥大化する「自分をさらけ出したい」というあざとい欲求に苦しんでいた。しかし、狂ったように「量」を書き散らし、古典の深淵に潜り続ける中で、一つの確信に至った。
書とは、固定された「作品」を生み出すための手段ではない。書くという行為そのものが、移ろいゆく自分自身と対話する「生」の営みなのである。
西洋的な思想が「不変の真理」を求め、一瞬の形を作品として固定することに重きを置くのに対し、私は東洋的な「無常観」の中に身を置きたい。
完成した瞬間に良し悪しが確定し、変化を止めてしまう「作品」は、いわば書くという躍動の「残骸」に過ぎない。むしろ、日々墨を磨り、筆を執る中で、自分自身の内面や身体感覚が刻一刻と変容していくプロセスそのものにこそ、真の豊かさがあると感じている。
この視点に立ったとき、古典の見え方は劇的に変わった。千年前の文字は不変の正解ではなく、今の自分を映し出す「鏡」となった。自分が変われば、古典もまたその表情を変える。逆説的に言えば「古典は変わる」のである。
今の書道界では、展覧会や評価のために「忙しい」と走り回る人々が多い。しかし、私はあえて「暇」であることを選び、酒を片手に古典と一対一で向き合う時間を愛する。それは決して他者を否定するためではない。作品を作り込み、後世に遺そうとする「構築的」な生き方もまた一つの道であり、尊重すべきスタンスであると理解している。ただ私は、変わり続ける流れの中に身を任せ、その時々に「プリッと出た物」を愛おしむ、自由な「筒」でありたいのだ。
技術を磨き抜いた先に待っていたのは、自分を誇示することの空虚さと、自分を消していくことの静かな愉悦だった。今の私にとって書道とは、完成を目指す「名詞」ではなく、ただひたすらに変わり続ける自分を生きる「動詞」である。