7月のあの日から、とても長い時間が経ったように感じます。
先週の月曜日、みかんの四十九日を迎えました。
リビングに、ごく小さな祭壇を設けました。
計ったわけでも無いのに、元ハンモックがぴったり収まって驚きました!
ケージに祭壇があった間は、毎朝ペレットとお水を替えていたのを、四十九日を区切りにお水だけに。
遺影は、旅立った当初は(昔にプリントしていた)若い頃の画像だったのを、大人になってからの画像で選びなおしました。
左の写真はちゃぶ台の下。みかんのお気に入りの場所なんです。
右の椅子の上でまったり、の姿で、私たちを見守ってもらっています。
みかんの留守番部屋にあるケージは、けっきょく片付けられず。
真冬になって、この部屋では寒くて眠れなくなるまで、ケージの前で寝ることになりそうです。
四十九日に先立ち、お世話になった動物病院の先生にご挨拶に行ったり、他にも区切りとするべく、いろいろとありました。
それぞれの行動当初は、まだ自分の気持ち的には早かったかも知れない、無理に区切りを付けなくても良かったかも知れない、とも思いました。
それでも、ひとつひとつのこうした区切りのおかげで、祭壇の移動もそうですが、みかんを失った悲しみよりも、みかんに守られている実感の方が(少しずつ)大きく、感じられるようになってきました。
ひとつ前のペットロスの記事に関連して。
20年くらい前に読んだ村上春樹のエッセイで、誰かを愛した記憶はその後の人生を長期間にわたって温めてくれる、みたいな記述があったように記憶しています。(小説だったかも…淡すぎる記憶…)
同じような意味合いで、一匹、一頭、一羽の子との暮らしがかけがえの無いものであったならば、その記憶だけで、お別れの後もずっと、満たされた気持ちになれるのではないかと。
自分がそうなるかどうかは分かりません。
ただ、ペットを失った人が新しい子を迎えないのは、別れが悲しいからだけでそうするのではなく、亡くなった子との幸せな記憶に満たされた結果でもあるかと。