君という光

 ふと気が付くと、彼は一人暗闇の中を漂っていた。

上も下も、左も右も。時の流れも、生の存在も。何も感じられない世界。

いや、感じる心そのものが彼にはないのかもしれなかった。

生あるものは誰もが持っている感情。それがあるべき場所にある傷跡。

無造作に抉り取られたような痛々しいそれは、ぽっかりと大きな穴を開けていた。


「おう、兄ちゃん!!どこ見て歩いてんねん!!」


どすの効いた声が辺りに響き渡る。青年が中年過ぎの男に絡まれている。

立派な体つきをしたちょっとやくざの入った男。対する青年はとても今が働き盛りの活気溢れる

時とは思えないぐらい、やつれ切っていた。男を前にするとそれは一層弱弱しく見えた。


「聞いとんのか!?何とか言ったらどないやねん!!うら、そんな気ぃは長うないで!!」


男は青年の胸ぐらを掴んで激しく揺さぶった。それでも青年は何も言わなかった。

馬鹿にしてんのか、とついに男がなりふり構わず殴り始める。通りを歩く人々が一方的に殴られ続ける青年に

同情的な視線を向ける。


(あの青年、最後まで生きていてくれればいいけど・・・。)


そう心配になるほど手ひどい仕打ちを受けながらも、それでも青年は悲鳴の一つも口にしなかった。

青年には生気が感じられなかった。男に散々殴られ体が立たなくなっても、

反射的に咳き込む口から血が流れても、

その虚ろな瞳には何の光景も映してはいなかった。

男はそんな彼を不気味そうに眺め、けっと唾を吐きかけ去って行った。

残された青年は壁に背を預けたその状態のまま動かなかった。

その頭上では、壊れかかった街頭の明かりが不定期に点滅していた。

ふと、彼の影の隣に一つの小さな影が寄り添って来た。

一匹の小さな薄茶色のふわふわした長い毛並みをした犬が、青年のすぐ隣にちょこんと腰を降ろした。

鼻をヒクヒクとそよがせ瞬きひとつして、小首を傾げる。

突然のお客さんに青年が微かに視線を動かしたが、すぐにまた固まってしまった。

しばらくの間首を傾げたまま青年の方を見つめていた犬は、次の瞬間嬉しそうに一声ほえて、

尻尾を盛大に振り始めた。そしてくすぐったそうにその身をよじったり、円を描きながら

走り回ったり、前足を挙げて後ろ足でその小さな体を支えながら立った状態でしきりに舌を動かしている。

青年の体が揺れた。その彼の顔には表情という形の変化が見て取れた。

再び犬の方にやった瞳には微かに光が差し込んでいた。

彼の見つめる先。そこには犬と戯れる一人の女性の姿があった。