「自分を知るということ」は、「自分を受け入れること」の前段階。
それがあってこそ他人に目を向けることができると考えてます
自分を知ることをすっ飛ばして、無理やりに、なんかよくわかんないけど自分を受け入れようとしたり、他人を想おうとしても、歪みが生まれて違和感を感じます
私の場合、自分をじっくり観察した時、「絶対に認めたくない自分」を見つけてしまったのです
私は「他人の気持ちを優先して我慢しすぎてしまうタイプ。優しい。真面目。愛情深い。」と自認していました
なので「そうでない人」に不愉快さを感じたり不満を持っていました。
そこを掘り下げたのです。
なぜ不快に感じるのか?私に配慮がないから?私に配慮しないのはその人の勝手だよね?その人は私にどんな被害をもたらそうとした?それに私が腹を立てる必要がある?
などなど、自分自身に問いかけまくりました
そうすると見えてきたのは「他人からいい人と評価されたい自分。優しい、真面目と思われたい自分。執着心の深い自分」が見えてきました
ほんっっと〜に見たくなかった
大っ嫌いな人間像が、まさに自分の根底にあったなんて、と思いました
ショックのあまり自分を最低だと責めに責めて、ずいぶんと落ち込んだものです
自分を知ることって、ほんわかしているようでけっこうしんどいんですよね
(私の場合だけかもしれないけどね。)
そこからは、前回のブログのように「嫌なやつのこと、嫌い〜!って思う自分ごと私なんだわ。うーん、やだけど、そうなんだもん、しょーがない!」と自らを知り、そして許していくことにしました
【前回のブログ】
その後はどんどん扉が開くようで。おもしろくて仕方がなかったです
今となっては「(私にとって)嫌な人だな」と思っても感情的に動揺しづらくなりました。(なる時はなる)
その代わりなのかはわからないけど、を見るとめちゃくちゃ感動するようになっちゃって、若干困るほどです
でも「うわーまた感動してるw」って思うのも愉快で楽しいですよ
歳をとると涙もろくなるってこういうことかな
それで。
私が最近こだわって、執着して、なんなんだろう??って考え込んじゃう人々について。
何かに目覚めた「風」で、「一見」いいこと言うなぁ〜って気に入ってみていると、だんだん…
「これは違うぞ?」って思う人々がいます
例えば「マウントを取るような行動は誰のためにもならない」とおっしゃったかと思えば、「(誰かのとある行動を)あなたの愛する人のためにならないからやめるべきだ」と他人に苦言を呈する…
(それをマウントを取っていないと思い込めるマインド)
「自分を知る」をすっ飛ばして、「自分を愛する」「他人を愛する」と言うステップに気を取らていると感じます。
「理想的な自分」であろうとする事は素敵です。
でも、まず自分自身を深く見つめないと…
本当の意味で自分を愛せないし、それは他人への愛にはならないです。
「こういう特徴の人たちの事が気になってしまう自分」をいま見つめて紐解いている最中です