「自分を知るということ」は、「自分を受け入れること」前段階。

それがあってこそ他人に目を向けることができると考えてますにっこり


自分を知ることをすっ飛ばして、無理やりに、なんかよくわかんないけど自分を受け入れようとしたり、他人を想おうとしても、歪みが生まれて違和感を感じます煽り


私の場合、自分をじっくり観察した時、「絶対に認めたくない自分」を見つけてしまったのですオエー

私は「他人の気持ちを優先して我慢しすぎてしまうタイプ。優しい。真面目。愛情深い。」と自認していました爆笑

なので「そうでない人」に不愉快さを感じたり不満を持っていました。

そこを掘り下げたのです。


なぜ不快に感じるのか?私に配慮がないから?私に配慮しないのはその人の勝手だよね?その人は私にどんな被害をもたらそうとした?それに私が腹を立てる必要がある?


などなど、自分自身に問いかけまくりましたびっくりマーク


そうすると見えてきたのは「他人からいい人と評価されたい自分。優しい、真面目と思われたい自分。執着心の深い自分」が見えてきましたガーン

ほんっっと〜に見たくなかったびっくりマーク

大っ嫌いな人間像が、まさに自分の根底にあったなんて、と思いましたオエー


ショックのあまり自分を最低だと責めに責めて、ずいぶんと落ち込んだものですふとん1


自分を知ることって、ほんわかしているようでけっこうしんどいんですよね驚き

(私の場合だけかもしれないけどね。)


そこからは、前回のブログのように「嫌なやつのこと、嫌い〜!って思う自分ごと私なんだわ。うーん、やだけど、そうなんだもん、しょーがない!」と自らを知り、そして許していくことにしましたニコニコ


【前回のブログ】


その後はどんどん扉が開くようで。おもしろくて仕方がなかったですびっくりマーク


今となっては「(私にとって)嫌な人だな昇天と思っても感情的に動揺しづらくなりました。(なる時はなる爆笑)

その代わりなのかはわからないけど、愛を見るとめちゃくちゃ感動するようになっちゃって、若干困るほどです飛び出すハート

でも「うわー爆笑また感動してるw爆笑」って思うのも愉快で楽しいですよニコニコ

歳をとると涙もろくなるってこういうことかなはてなマーク


それで。


私が最近こだわって、執着して、なんなんだろう??って考え込んじゃう人々について。

何かに目覚めた「風」で、「一見」いいこと言うなぁ〜って気に入ってみていると、だんだん…驚き

「これは違うぞ?」って思う人々がいます真顔


例えば「マウントを取るような行動は誰のためにもならない」とおっしゃったかと思えば、「(誰かのとある行動を)あなたの愛する人のためにならないからやめるべきだ」と他人に苦言を呈する…

(それをマウントを取っていないと思い込めるマインド凝視)


「自分を知る」をすっ飛ばして、「自分を愛する」「他人を愛する」と言うステップに気を取らていると感じます。

「理想的な自分」であろうとする事は素敵です。

でも、まず自分自身を深く見つめないと…

本当の意味で自分を愛せないし、それは他人への愛にはならないです。


「こういう特徴の人たちの事が気になってしまう自分」をいま見つめて紐解いている最中ですニコニコ

ご無沙汰しておりますにっこり

 

今日は『自己肯定感を高める』ことを大切とする価値観についてわたしの思ったことを綴りたいと思いますにっこり

 

最近、「自己肯定感を高めたい」とおっしゃる方からお話を聞くと、「高めたいに決まってる凝視」って返答をいただくのですよねうずまき

「なんで?」と聞きたい。あなたは今のあなたのままで素晴らしいのに愛ハート

 

自己肯定感、それは、大切だし生きていくには役に立つこと。もちろんなのです。

 

でも、最近、「自分自身を愛すること」「好きになること」「受け入れること」ってね昇天

それは明らかにそう。そうなんですけどね…

できるかできないかで言うと、大体の人は今の段階ではできないんですよ。できる人が「誰にでもできますハート」なんて言っても、今はできない側にほとんど響きがないんですよ魂が抜ける

すごいね!立派だねー!さすがだね!わたしには無理〜ってなもんでオエー

 

(ただ、それが今、誰かに響かなくても響かせようと言い続けてくれる人は大切で重要な存在です。ありがとうラブラブ

 

最終的には「自分を愛し」「好きになり」「受け入れる」ことになるんですが、まずはステップ1として、

「愛さなくていい」「嫌いでいい」「受け入れられない自分」知ってるだけでいいと思うんですよ。多分ね。(責任とれないよ、わたしは!)

 

「あいつむかつくなー!」って思っていいんだよ魂が抜ける

誰かや自分に対して否定的なあなたを許していいよ。それが一般的に理不尽だとしてもね。あなたにとって、どうなのか、それが大事なの飛び出すハート

あなたが思う、「失礼なこと」をする「あいつ」を「失礼なやつ」って思う自分を非難しなくていいんだよニコニコ

だって、そう感じるだもん。

 

他の全員がそう思わなくても、あなたが思ったことが、あなたの心が正直に感じるそのものなの。

 

「こんなこと思っちゃうわたしってダメ…」んなわけねーよ!?

あなたは大丈夫、正常だし、人のことを思える素晴らしい子!と、わたしは思うの。

それが、『自己肯定感』なんだと思うよ。

ポジティブの押し付けはくそくらえなんだわバイバイ

 

誰しも全員みんな、大丈夫だよびっくりマーク

 

 

Twitterを眺めていると、

「いいこと言うなー、よく言ってくれました!」と、

感心したり嬉しかったりするのですが、そのリプ欄を見るとあれ?っと思う事があります凝視

 

「わかる〜!私の周りにもこーゆー人いる〜!」みたいなコメントの多さに、そんな人たくさんがこの世にいるんだな」という感想と共に、それならなぜ「私のことだ〜!」ってコメントする人はいないのかな?とも思うんです。

 

コメントしないだけで、思っている人もいるのかなはてなマークはてなマーク

 

SNSだけでなく、ズバリ言うわよはっきりした物言い系のタレントさんを見てスッキリするのも同じ現象だと思うんですけども…うずまき

 

例えますと、

先日の私の記事「自分のことは自分で決めていい」の話は一番に届いて欲しいのは

「自分のことを自分で決めている実感がない人」ですにっこり

または「私の親しい人は自分で決められない」という知人がいる人との付き合い方や、ご自身の心の落とし方へのヒントになればいいなとも思ってますにっこり

 

ただ、「私の周りの自分で決められない奴、しょぼい!」って悪口を得たいがために書いたわけでは決してないということ驚き

そういう人に「わかるわかる」と共感されても、「あ、そうなんですね」という感じ(どうでもいい煽り)。

 

こんなことを考えたきっかけは

「悪口を言う人は自分に自信がない」と言う旨のツイートに対してのリプが

「わかる、自分の周囲の某人物は自信がないんだ!」的なものの多さ驚き

それでスッキリするなら「よかったね」ですけど、それになんの生産性があるのか。

そもそもそれは「周囲の某人物」への悪口には該当しないのか?と言う疑問無気力

 

ちなみに私自身はこのツイートを見て、自分の自信のなさを自覚しました。

その時、恥ずかしながら他人の自分に対する行動について、嫌う理由を探しまくっていた時期だったからオエー

「嫌いなら嫌いでいいや、理由なんてない。」って思えるほど自分の心に自信がなかったから、「こんな事されて嫌いになっていいよね?」の自問自答、答え探しをしていたんです。

 

自分の心を大切にして、自分を信じていたら、自分の気持ちを疑ったり、他人に確認する必要がないから、悪口や生産性のない共感をする必要がなくなりますよね。

 

私は多面性のある人間なので、悪口や生産性のない共感を口にするとスッキリする感覚もよく存じ上げておりますよだれ

それでその後軽やかに過ごせるのであれば、それは生産性があったことになりますし。

「共感系クソリプ乙です」とは思ってたりしますけど、一概に「悪口だめ絶対!」なんてことは思いません。

 

まあ、何が言いたいかっていうと「あいつのことだわ!」ってスッキリしたあと、「あれ?自分にもこういう部分あるかも?」ってちょっと振り返って若干恥ずかしくなったら、新しい世界が見える気がするのでおすすめ。強制はしません〜ラブラブ