最近、「決める」ということに現実を変える力があるのではないかなと思うようになりました。

 

 実行することができなくても、とにかくそう決めれば、現実が変わっていくのです。

 

 

 しかし、そうはいっても、悩みグセが習慣になってしまっている人など、決められない場合や決めきれない場合が多いのではないでしょうか。

 どうしてでしょう?

 それは、何か決めたとしても、そのことに対する不安が大きすぎるから、その不安の力に抗いきれず、その不安の先を考えたくなってしまうからではないでしょうか。

 私はそうでした。

 

 具体的にいうと、私のブログネタはおおよそ子どもが人間関係で辛い目にあっていないかというものでした。

 例えば、学童クラブに迎えに行ったときなどに、息子がいじめられていないか?浮いていないか?しょんぼりしていないか?などということがもの凄く心配で苦しいんだけど、それは自分自身の不安に過ぎないのだから子どもに投影するのではなく、自分自身の苦しみとして過去の記憶と向かい合いながら、自分の感じる不安から逃げないようにしてしっかり見つめていくしか乗り越える方法はない。

というようなテイストだったと思います。

 

 その考え方は、それはそれで非常に有効だったと思います。

 「ポンタ君(息子。仮名)、今日はすっごく元気に遊んでましたよー。」

 学童に迎えに行くと、先生がそのような声掛けをしてくれる日が多くなって私は自分の考えややっていることに自信をもち始めました。

 

 

 でもね。

 先日、そもそも息子がいじめられるかもしれないとか、人間関係で辛い目にあうかもとか、浮いてしまうことはないと決めてしまおう。

 そう思い、そのように決めました。

 なぜなら、そう決めてしまった方が苦しくないからです。

 

 

 もちろん、そう決めたとしても不安は勝手に頭の中に浮かんできます。

 そうですよね?

 浮かんでこないようなら、そもそもそのことで悩んだりはしないですからね。

 

 問題は、その不安が頭の中に浮かんできたときにどのように頭の中で対処するかです。

 私は、不安が頭の中に浮かんできたときに、決めたからという理由で不安自体の内容に入らずに却下してしまう。ブロックしてしまおう。

 その不安の中に首を突っ込まないようにする。

 そうするのが正しい方法だろうと直感で思いました。

 そして、さっそく「子供の人間関係問題」はないことに決め、学童に迎えに行くとたしかに不安が浮かぶこともありますが、即座に決めたからという理由でブロックしています。

 うん。

 たしかに、不安に首を突っ込まないと苦しくなりませんし、決めたことと逆の現実も、今のところ目にすることもありません。

 

 

 以前も決めようと思ったことはありましたが、その不安の内容に入らずに無かったことにするというのは、目を逸らすだけの逃げであり、問題の先送りでしかないと思っていたし、現実に湧く不安にどう対処していいのかが分からないこともあって実現できずにいました。

 それに、「決めた」としても、それはあくまでも私の頭の中だけで起こったことであり、現実を変える力など何一つないと確信していましたから、不安の魅力に簡単に囚われていたようにも思います。

 

 でも、最近、もしかして「決める」ということ、それ自体に現実を変える力があるのではないか。

 そんな風に思うようになって、やっと「決める」ことを実践することが腑に落ちてきたなと思い始めたところです。

 

 でも、本当のきっかけは一義流気功で異常反応31%を解体してもらったのが大きいです。

 そのおかげで、不安レベルが以前よりも大幅に低下したんです。

 それがなければ私にはできなかっただろうなあと思います。

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この方の苦しみは大きかったのだろうと想像する。