side 奏江

この子の笑顔を見て本当にほっとした。この子が廊下で崩れ落ちた時には何か取り返しのつかない事態になってしまっている事に、この子の近くにいながら事態の悪化に気づけなかった自分に凄く腹が立った。私が他人の事でこんなにも感情を乱す事は今までなかった。この子はそういう意味でも凄い子なんだと改めて思う。一息ついたから飲み物でも取ってこようと部屋の扉を開けるとそこに敦賀さんが立っていた。キョーコを追い込んだ元凶に沸き上がる嫌悪を取り繕う義理も感じなかった。そんな私の視線に敦賀さんが一歩退く。普段なら視線だけで人が殺せそうな威圧感を纏う敦賀さんがたじろぐなんて、この人にとってもさっきの事は大事件なんだろう。でも、そんな事に同情なんてしていられない。私は、私を親友と呼ぶキョーコを守らなくてはいけないの。特にこの人から守らなくては。今のキョーコを傷つける最大の危険因子はこの人なんだから。

『なんですか?』

図らずもいつもより低くて抑揚のない声になる。

『あ、いや、あの…。』

『用事がないなら来ないでいただけますか?』

先輩にむかって失礼かとも思ったけど、今のこの状況で取り繕っても既に遅いから、この際考えない。敦賀さんはその身体に似合わずおどおどしながらなんとか声を絞り出すした。

『…京子…さん…は…?』

『あの子なら今は落ち着いてますよ゜あなたがあの子の心に波風立てなければあの子は穏やかでニュートラルなんです。』

そう、今のキョーコはいつものキョーコに戻ってるわ。

『……っ、あぁ…。』

『またあの子に何か波風立てるつもりで上がってきたんですか?』

『そ、そんなっ!』
『ならいいですけど、あの子のことを少しでも心配しているのなら、そっとしてあげていただけませんか?』

また口調が強くなってしまった。こういうの私のキャラじゃないんだけど、この際仕方ないわね。

『もー子さん、どうかしたの?』

部屋の中からキョーコの控えめな声が届く。

私は振り返って『何でもないわ。あんたはのんびりしてなさい、モーっ!』と声をかけた。

『でも、もー子さん、なんか怒って『怒ってなんかないわよ、もーっ!』…でも…。』

しまった。この子をしょげさせたい訳じゃないのよ。

『今はあんたは何にも考えないでゆっくりしてなさい。もう倒れたりしたくなはいでしょ?もーっ!』
な、何よこの子。私は怒ってるのになんだか嬉しそう。やっぱり訳のわからない子よねっ、もーっ!

『うん、それはそうなんだけど、誰か来たんでしょ?』

そういうとすっと立ち上がって部屋の入り口の方に歩いてくる。

『おとなしくしてなさい、もーっ!』

人のいう事聞かないのは前からちっとも変わってないのよね。そんなニコニコ笑顔で近づいてきたら強く止められないじゃない。

『京子…さん…』

このへたれ男っ!キョーコの顔見ただけであからさまにほっとしてんじゃないわよっ!

この子は…、ほら固まった。

『あぁもぉっ!だからあんたは出て来なくていいって言ったのに、もーっ!』

『ご、ごめんっ!』

『『えっ?』』

な、なんなの行きなりっ!
敦賀さんを見るとびしっと直立の姿勢から上体を二つ織りにして頭を下げている。一体なに?何が怒っているの?

『ごめん。京子さん、本当にすまない。俺は、俺は…。』

敦賀さんがこの子に謝ってる。それも必死に切羽詰まった声で。

『怖いんだ。何もかもが、今の俺を取り巻くもの、人、出来事全部が怖いんだ!』

『つ、るが…さん?』

こんな敦賀さん、きっとこの子も見たことないんだろうな゜驚いてる。でも、【敦賀蓮】は腐っても一流の役者よ。騙されるな、私っ!

『俺は、【敦賀蓮】を演じる事で精一杯で、演じれば演じるほど解らなくなって…、こんな鉄人のような男は作り物なんじゃないかって思い始めて、俺自身が実は作り物で、元から俺なんていないんじゃないかとか、このまま【敦賀蓮】に飲み込まれて、俺が消えちゃうんじゃないかって…。凄く怖くて…。』

『敦賀…さん…』

あの天下の【敦賀蓮】がこんな無様な格好をさらす。これは本当に現実なのかしらと自分の目を、耳を疑いたくなる。

『なのに、君と来たらどこまでも【京子】なんだ。』

『えっ?』

『俺達が社長から貰った設定をなんなく身につけて、君は【京子】としてそこにいるんだ。資料の中にいる【京子】がリアルな形で俺の隣にいる。少しでも気を抜けば【敦賀蓮】が剥がれてしまいそうで怯える俺の隣で君は【京子】で、それが自然なんだ…。』

この人、敦賀蓮よね?
敦賀蓮がこんな事を悩んでたなんてちっとも知らなかった。
いつも尋常じゃないオーラを放ってそこにいる敦賀蓮が、今はとてつもなく小さく見える。

『敦賀…さん?』

えっ?キョーコ?

私は敦賀さんのその姿に呼び寄せられるように近づくキョーコを引き留めようとした。でも、すぐに諦めてしまった。一度は伸ばしかけた手をすぐに止めて、何も掴まなかった手をじっと見つめ、強く握る。そして小さくため息を吐いて廊下の二人をおいて階段を降りた。

なんだか負けた気がした。引き寄せられるように敦賀さんの元へ近づくキョーコの姿に、必然を感じてしまったから。この二人は離れてはいけない、一緒にいてこその存在なんじゃないかと感じてしまったから。二人の間には誰も入り込む事など出来ない。記憶を失った今も二人は惹かれあい、求めあっているのだと、思い知らされた。でも、同時にそれでいいと思った。私の中の色んなわだかまりがすっと消えていくのを感じた。どんな形であれ、この二人は一緒にいるべきなんだと、根拠はないけど納得できた。だから私はそのまま二人のそばを離れる事ができたんだと思う。