過呼吸発作


皆がバタバタとキョーコを自室に運んでいる間にセバスチャンが手配した宝田家の主治医はそう説明した。精神的な不安から自律神経の制御がきかなくなり、呼吸のペースが乱れ、息を吸うことはできてもはけなくなる。極度の禁漁状態での発作なのだと説明を続けた。


医師の説明を聞いた者は皆、思い当たる事が嫌というほどあるので納得するしかできなかった。救いは命い別状がない事と、精神的に落ち着けば回復する事。手軽に対処法があるという事だろうか......


「今のキョーコちゃんのストレスを少なくするなんて無理じゃないか......」


あきらめるような溜息とともにつぶやかれた社の言葉に奏江も同意を示す。記憶がないという状況が何より大きなストレスなのだ。しかも、今のキョーコは失った記憶を取り戻す作業を始めている。その特殊で手探りの作業も一般的には想像できないほどのストレスになっているだろう。


セバスチャンが伴って入ってきた医師に奏江はキョーコが倒れた経緯を説明し、医師は奏江の説明と診察時点でキョーコのバイタルサインに異変がな位7事から『過呼吸発作』と診断した。


「女優さんですから、ダイエットとか大変だとは思いますが、医療関係者からすれば少し痩せすぎですね。栄養のあるものをしっかりとって、適度な運動なども心がけてストレスを貯めこまないようにさせてください。」という医師のアドバイスは今のキョーコにはとてもむずかしいタスクに思えた。


「敦賀さん、いったいあの子に何をしたんですか?」


奏江の突き刺すような視線と言葉は蓮を直撃する。


「あの子は大抵のことには動じない。でも、敦賀さんの事になるとほんの些細なことで一喜一憂するんです。それは記憶を失う前からずっと。記憶を失ってからも根本的にその辺りは変わっていませんでした。だから、あの子がストレスを貯めこむのもパニックを起こすのも、敦賀さんとの間に何かがあったとしか考えられません。違いますか?」


「そ、そんな....俺は......」


蓮は奏江の言葉に言い返す言葉を見つけることができずに頭ってしまった。そんな蓮の姿に奏江は大きくため息をついて続ける。


「ちゃんと否定出来ないのは肯定と見て問題無いですな。」

「......」


「ふっ、情けない。社長。こんな頼りない人のそばにあの子をおいておくことはできません。私が連れて帰って一緒に生活します。あの子は私が友達だったって事は忘れていますが、私はラブミー部での活動も同じですからサポートしやすいと思います。何より、無駄に心をかき乱される事は少なくなると思いますから!!」


「そ、そんな......」

蓮の小さな抗議の声。蓮の動揺は思いの外大きいようだ。さっきまでは自分からもう限界だなどと言っていたくせに、いざ取り上げられるとなると手放したがらない、本当に小さなわがままな子供そのものの蓮。


「琴南くん、ちょっと待ってくれ。最上くんの件は確かにそうなんだが、君の提案を実行すると廃人になる奴が一人いるんだ。」


ローリーは煙草の煙をゆっくりと吐き出しながら手に持った葉巻で蓮を指す。


「そんなの自業自得です。知ってか知らずかここまであの子を追い詰めておいて、自分が被害者た1わりもいな顔してるんですもの。あの子の苦悩なんてきっと1割も知らないし解らないと思いますから。」


「琴南さん、それくらいにしてやってくれないかな。琴南さんの気持ちもよく解るけど、俺にとっては蓮も大事な弟分なんだよ。」


「社さん......」


「きっとね、キョーコちゃんが倒れたのは蓮のヘタレ極まりない」態度のせいなんだと思うよ。でも、それが蓮で、だから蓮なんだと思うんだ。俺はそんな蓮だから憎めないし、」キョーコちゃんもそんな蓮だから、こいつの些細な変化に一喜一憂してるんじゃないかな......」


社の穏やかで優しい言葉。キョーコの事も蓮の事も大事で可愛いという兄、社。社にそんなふうに思われている二人を羨ましいと感じ、少しだけ距離の遠い自分が少し寂しいと思ってしまった奏江。


「琴南くん、最上くんが目を覚ましたらじっくり話をしようと思う。蓮にも言い分があるだろうから、少し時間をやってくれないか。最上くんが蓮と一緒にいることを少しでも拒んだらその時は全面的に最上くんのサポートを君に一任する。その時はよろしく頼むよ。


「....はい。」


蓮はあからさまに安堵の溜息を吐き、奏江はそんな蓮を怒りを込めて睨みつける。社はこの状況から逃げ出せない自分を哀れんで天井に視線を向けた。


ローリーは葉巻を咥え、深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。


「蓮よ、正念場だぞ。ここで琴南くんにダメ出しされるようでは最上くんを任せる訳には行かないからな。俺は愛の伝道師だから、お前を応援してやりたいと思うが、最上くんを幸せにできないようならお前に最上くんの隣に立つ資格はない。さぁ、どうするよ、蓮?」


蓮にとって、最大の試練の始まりだった。