マリアさまとコルベ神父様の祭壇
教会で買った長崎のお菓子

今日は聖母被昇天のミサなので朝9時から地区ごとに4回に分けてのミサ。9時のミサが求道者🆗なので1回目からお弁当持ちでずっといてその後会議。だから各地区の方々に会えた。
年配のKさん(おじいちゃん)がやって来て「いつも一人だから誰かと喋りたいと思って来ても喋れないからつまらない。」と私にグチって帰った。Sさんが来て、私と少し話したら元気が出たといつものように言ってくれた。その他何人かの人と気にしつつも会話を交わした。
うちの教会は明日から10月まで公開ミサ中止。会議では今いる求道者の方のこれからの対応について話が出た。
神父様は今のうちの教会の状態で新受洗者を受け入れることが出来るのかと疑問を持っている。共同体として充分機能しているとは言えない状況では自信を持ってYESとは言えない。こればかりは私が頑張ればという問題ではないからだ。求道者の方々にも問題がある。どちらかと言うと共同体に属するという意識は薄い。神と一対一の関係にあるという意識のほうが強いのだと思う。でも、まぁ、なかなか共同体の一員であるという意識を持っている信徒だって少ない。神父様は教会という囲いの中で迷える子羊を出したくないのだろう。そういう人は実際たくさんいる。神父様の葛藤もわかる。
コロナ禍の今、共同体としての教会は今までにない問題を突きつけられている。新しい人を迎え入れられない、いや、既存の信徒の結びつきも危うい。これは神からの私たちキリスト者たちへの課題なのかも知れないと思いつつ、今、読んでいた本は共同体のあり方について書いてあるものだった。偶然ではないかも。ヨハネ福音書はその独特の表現から自分と神との個人的な次元で読む人が多いが、深く読んでみると共同体としてのあり方と使命を問うていると言う。
この希望の見えないような不安なときはよりよくなるための準備であるように祈ります。