正直になるのは 難しいですか?

 

自分を心の中で褒めることさえ

 

誰も聞いていないのに 恥ずかしく思ったりしますねw

 

その視点は 「お天道様がみてる」 に

 

繋がっています。

 

対、他人となれば 尚更 自己を曝け出すのは

 

難しいでしょう。

 

でも、

 

私たちは 1人で生きてはいません。

 

自己を守っていると自覚があるのなら

 

他の方々も そうなのだ と わかります。

 

けれど そのままなら 寂しい世界です。

 

ですから 何某か 居心地の良い集団に

 

属したいと思うこともあるでしょう。

 

ありのままでいられる拠り所。

 

 

 

自己の正直な気持ちや意見を

 

導き出すのも難しいのに

 

裏切られた、などということを

 

よく聞きます。

 

相手を信じるということは

 

それに頼って自己を委ねる選択です。

 

このような場合 信頼とは 

 

良い作用をもたらしませんね。

 

決定を相手に委ねた、との自覚がないと

 

裏切られた、と思うのでしょう。

 

全てがそうであるように

 

相手に何かを放つ時 強制になることは

 

少なくありません。

 

載せる気持ちによって 

 

良くも悪くも作用するのだと思います。

 

正直であることや信じ合うということは

 

瞬間的な感情や決定であり

 

自己や他者に関して 

 

そこに至った過程を知り、学び合い

 

変化することも赦し合いながら

 

共に心を寄せ合う前提で

 

成されてゆく事柄だと思うのです。

 

 

 本来なら それが

 

コミュニティを作る前提です。

 

 

小さな家族単位となると

 

途端に全てをお互いに委ねて

 

生きることになる と

 

なぜ思ってしまうのでしょう。

 

人との関わりは 全て同じようなものだな

 

と、考えることもできると思います。

 

 

支え合う約束をした けれど

 

あの瞬間はそうだった けれど

 

自己さえも未知ゆえ 

 

価値観の大きな開きに

 

お互いが苦しみ 

 

離縁に至ることもあるでしょう。

 

数々の悲劇と思われる出来事に耐えられる

 

キャパシティのバランスの違いで

 

道を違える事になることもあると思います。

 

夫婦でも、親子でも、

 

起こり得ることです。

 

 

私たちは、1人1人なのです。

 

 

夫として

 

妻として

 

嫁として

 

婿として

 

兄弟として

 

親として など、

 

立場としての責任を

 

押し付け合いながら、

 

これこれの立場 として

 

自己の行動を決定する事は、

 

分裂を生むばかりです。

 

内の分裂はそのまま

 

現象の世界を形成します。

 

その集団が形成する現象界を俯瞰して

 

行動などを選択しているでしょうか。

 

 

身内と社会の境界でのやり取りは

 

現在の社会構造を理解した上で

 

その都度 意識して

 

立ち振る舞いを決めて行動するなら

 

お互い心地よいものであり得ます。

 

冠婚葬祭の礼儀作法などは

 

喜び悲しみ怒りなど

 

その時どのような感情の状態でも

 

それがあるために お互いに

 

不快な気持ちになる事なく

 

それぞれの気持ちを噛み締める事を

 

邪魔しないでしょう。

 

 

ただ、

 

日常的に 親族内で

 

立場からの言動や行動を

 

決定し 立ち振る舞うなら

 

個人内の解離が

 

家族内での問題解決を複雑にし

 

苦しむ事になるのではないでしょうか。

 

 

夫婦なら

 

互いを好ましく想い

 

あるがままを受け入れると決めた

 

労わりと尊重と思いやる心のある自己として、

 

親子なら

 

愛おしく想い

 

現在までの社会構造や時代を

 

経験した先輩であり

 

限定された経験から得られた

 

受け継ぎたい何某かを語るものがあり

 

未来は未知であると知り

 

個を尊重し思いやりのある自己として、

 

嫁や婿なら

 

これまでを生き抜いき

 

時代を創ってきてくれた先輩であり

 

恩人として

 

義父母がここに至るまでの背景に想像を巡らし

 

労わりと尊重と思いやりを持った自己として、

 

兄弟ならば

 

同じ両親のもとで育まれた縁と

 

小さな社会で切磋琢磨した学びや

 

共有する幾多の思い出を持つ同士として

 

労わりと思いやりを持つ自己として。。。

 

 

立場としての何本もの軸を

 

私という軸に統一してみては

 

どうでしょう。

 

 

私として 言葉をかけ

 

私として 思いやり

 

私として 寄り添い 

 

私として 協力する 

 

という選択をするなら、

 

何と言われても、何があっても、

 

私だから そうしたのだ、と

 

言える自分でいられるのです。

 

 

個として完璧でありながら

 

まだ伸び代があり、

 

協調 調和 共生などを創造するために

 

凸凹を設定してきた私たちは、

 

自己として この生命を

 

最大限活かしてゆきたいのに、

 

自己を 幾つもの立場に分離させて

 

それぞれを 自動的に演じているなら、

 

気付かずに常識と言われる渦に

 

巻き込まれ、苦しみ

 

葛藤してしまうのではないでしょうか。

 

 

大多数の方々が、

 

親になるのも

 

妻、夫、嫁、婿となるのも

 

はじめての事なのです。

 

それぞれを理想的に演じることは

 

可能でしょうか?

 

それよりも ただ、

 

自己を演じ切ることに

 

注力するのがよいと思います。

 

 

自分に正直になり、

 

自己の凸凹を受け入れ

 

相手の凸凹を受け入れ

 

思いやり、尊重し

 

赦し合って、活かし合って

 

調和を目指すなら、

 

自己を愉しみ

 

関係を楽しみながら

 

日々を過ごして行けるかもしれません。

 

 

では、また👋