中学3年の夏、海の近くに住んでいた僕は友人と海水浴に来ていた。
雲ひとつない晴天に、ぎらぎらと照りつける太陽、その下で僕らは思いっきり駆け回っていた。
競争したり、水を掛け合ったり、ビーチバレーをしたり、あっという間に時間は過ぎて行った。
日が傾き、海が赤く染まり、そろそろ帰ろうかという雰囲気になったときだった。
僕は最後に、砂だらけになった足を、波の力を利用して洗っていたときだった。ふと、足にカツンとなにか硬いものが当たる感触があった。見ると透明な瓶がどこから流されてきたのか、僕の足のそばでうようよと漂っていた。
拾い上げてみると、ビンの口にはコルクで栓がされており、中には丸められた紙のようなものが入っていた。
もちろんそれが気にならないわけがなく、すぐさま栓を抜いて中身を取り出してみた。
中身はやはり1枚の紙が丸められているだけのようで、いったい何が書かれているのだろうという期待半分と、どうせ何も書かれてないのだろうという思いが半分で紙を開いてみる。
・・・
案の定何も書かれていなかった。
なんだ、やっぱりただのいたづらか。
そう思って、ビンと紙をそのまま放置して行こうとも思ったが、一度拾ったものをもう一度戻すのはなんだか、ゴミを捨てるみたいでなんだか忍びなくてそのまま持って帰ることにした。
「おい、それ何持ってるんだ?」
そのまま瓶をもって、自転車にまたがって待っている友人たいと合流すると、そのうちの一人がそう尋ねてきた。
「んーなんか拾った。」
「ふーん。ちょっと見せろよ。」
そういって半分ひったくるように瓶をとられる。他の友人たちもそれに興味を示して集まってくる。
「見ても、何も書いてないだろ。」
紙を広げて見た友人たちに向かってそう声をかける。しかし、反応がない。どうしたのだろうか。
「お前、これ見えないのか?」
紙をはじめに広げた友人がそう尋ねてくる。
何か書いてあっただろうか。そう思って、友人が広げている紙を横からのぞきこむ。
・・・
やはり何も見えない。
紙をのぞきこんでいた他の友人の顔を、見ても誰も彼もがこの紙に何かを見出しているようだった。何人かは少し恥ずかしそうだったし、何人かはすごく真剣な顔をしてそれをのぞきこんでいた。
「やっぱり、何も見えないよ。」
そう一言言うと、なぜか全員に不思議な顔をされた。
「そうか・・じゃあこれ返すわ。」
そういって、紙を瓶に入れて返された。その後友人たちは、その紙については全く触れようとしなかった。
その後、家に帰って父親や母親にその紙を見せると、その紙に書かれていることに驚いているようであったが、その内容は聞いても答えてくれず、逆にこんな質問をされた。
あなたには何が見えるの、と。
その問いに答えることができず、ただただそれを抱えて年を重ねてきた。
親に言われるまま、いわゆる進学校と呼ばれる高校に進み、周りに薦められるまま有名な大学に行き、大学で学習したことが生かせるような職業につき・・・
しかし、いつまでたっても、その紙が僕に何かを見せてくれるということはなかった。
誰に聞いてもそれは上手く口にできないようなことであり、誰もがある種の恥ずかしさを抱き、真剣に取り組むべき何かでもあり、そして何より誰もが1つは持っているものだという。それはいったいなんだというのだろうか。
そうして、何も見えないままだった僕にも、最後の時が近づいてきた。
結婚し、子供ができ、子供が結婚し孫ができ。普通な人生ではあったが幸せな人生ではあったと自分で思う。
今までは、自分が年をとって死ぬとなった時には死にたくないと思うのだろうかと思ってたが、そうでもなかった。
自分は十分幸せだったと思うし、これ以上何を望むというのだろうか。
いや、これ以上望むとしたら、これから生きる自分の子供と孫の幸せだろう。
いままで、流されるままに生きてきて、自分の思いや願いなどといったものはないのではないかそんな風に生きてきた。
この世界は生きるので精一杯だ。何かを願うには難しいし、日々の中でそれをかなえるのは難しい。
だからこそ、これから先自分のことを考えなくてもいいとなったとき、初めて僕は何かを願うことができるのかもしれない。
ふと、枕もとに置かれた、今は色あせ、色も焼けて黄色くなってしまった紙を瓶から取り出す。
それをゆっくりと広げる。
何年も・・・
何十年も・・・
何も書かれていなかった真っ白な紙・・・
そこには、自分の子供と孫が幸せに机を囲んで食事をしている風景が描かれていた。
ああ、そうか。
いままで自分は社会の歯車のようだった。でも今はわかる。望み、願うことの大切さが。
それは人生を豊かに過ごすのに必要なものなのだろう。
ああ、僕は死ぬ間際になって本当に幸せだ。
だって、僕の望みはきっと叶うだろうから。
そうして、静かに息を引き取った。