自分を認めるって、知識として知っていたし、
もちろん大切なことだと理解していたけど、

やっと、府に落ちた感覚になってきた。

なぜって、
小さなことを認めていない自分に気づいたから。
大きなことを成さないと、認めない自分がいたことに真剣に気づけたから。

それは、どんなにスモールステップであったとしても、実際に良くなっていたとして、
それを、大したことない。まだまだこのぐらいじゃって自分にしていた自分が確実にいた。

これじゃ、自分を否定してることと同じだよね。
これじゃ、どんなにがんばっても、ダメなんだってあきらめちゃうよね。

小さい時に父親からされてたけど、

今は、私がわたしにしていた。
しかも、全く気づかないぐらいとても自然に。
この積み重ねの日々だった、、、。



ほんのささいな、良い出来事、
ほんのささいな、自分ができたこと、
ほんのささいな、シンクロ。
(その方向で合ってるよという、宇宙や神からのお知らせ。神は話すことができないから、シンクロでお知らせしてきてくれるらしい。)


それらを、認めること。
それが、自分を信じることにもなる。

それは、最終的には、自分でしかできない。

どんなに素晴らしいですと言われても、
どんなに好きだと言われても、

それを自分が受け取らなければ、
自分で認められなければ、

自分は、そんなことはないと、
最終的に、自分で自分を否定していることになる。



本当は、誰かからの承認や“いいね”が必要だったんじゃなかった。

自分で自分を認めてあげることが
できなくなっていたから、
それを外側から必要としていたんだ。

たとえ、外側から“いいね”をもらっても
最後の砦の自分が、それを自分に認められなければ
いつまでたっても満たされることはない。
もっともっと、となってしまう飢えた心のままだ。
なんてことだ。


自分で自分のことを認められると、
誰かから認めてもらおうとする必要がなくなる。

認めるといっても
自分のできたことや、良いことだけを認めるんじゃない。
私はここでも勘違いをしていた。
認めるとは、
素晴らしいから認められる。それに値しないと認められない、そう勘違いをしていた。
認めるとは、本当の意味はそうではなかった。


自分の気持ちも全てを認めることだった。

そう思ったんだね。そう感じたんだね。と。

それを使って、判断したり、否定したり、自分を責めるのではなくて、
ただありのままに認める。だった。

それは、ささいなことから。
とても、ささいなことから認める。

そして、
最後には、存在自体をただ、ただ
認められるようになる。
条件なく。

認めるということは、
本当は条件など必要なかった。

ただ、認める
だけだった。

そこから、安心や愛を感じられるように
なるんだと、気づいた。




自分との和解から始めよう。



気づくのが遅くなってごめんね。

許してください。

1人でがんばらせて、それなのに
否定してばかりでごめんなさい。

大したことないって言って認めなくて、
がんばりに気づいてあげれなくて、
本当に本当にごめんなさい。

私がわたしの敵になっていた、、、


本当はひとつ、ひとつのことを
大切に受け止めてあげることだった。

そこにきっと、喜びが隠されていた。



これから、
ひとつ、ひとつ丁寧に全て認めて、受け入れて
味わっていくよ。




本当は、誰かからの承認が必要だったんじゃなかった。


私は、自分から認めてもらうことを、
ずっと待っていたんだ。