この週末は私用で倉敷市を訪れました。お昼は「菜乃家 倉敷本店」でランチをいただき、その際ご当地(岡山市)出身の元読売ジャイアンツでご活躍された川相選手(現在はコーチ/背番号『78』) のサイン入り色紙を目にしました。勿論、現役時代の川相選手は応援していました。
川相昌弘(1964- )
岡山市立第二藤田小学校、藤田中学校(岡山県岡山市南区藤田)、岡山県立岡山南高等学校卒業。通算533本の犠牲バントは世界記録で、通算犠打成功率は9割を超えるなど「犠打職人」「バント職人」「バントの神様」の異名を持つ。通算打率.266もご立派で、ファンからすれば頼もしい選手でした。
全盛期の川相選手(懐かしいです。)
創作料理店
人気のお店でいつもいっぱいです。
『菜乃家御膳』2000円(税込)
本日もこのような料理でした。
藤田伝三郎(1841年〜 1912年)
明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田財閥の創始者。日本の商人、実業家。建設、土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績、新聞などの経営を手がけ、今日の多くの名門企業の前身を築いた。また有能な経営者を多数育て、美術品の収集家、慈善事業家、数寄者としても名高い。藤田組(現・DOWAホールディングス)の創始者。民間人で初めての男爵でもある。
児島湾干拓事業
岡山市南区藤田にある児島湾の干拓事業。この計画は岡山藩の時代からあり、一部着工されていたが、明治になり旧藩士たちが工事を進めようとしたところ、資金難から伝三郎に依頼した。伝三郎は採算の見通しが持てなかったが、大がかりな国土創成計画に夢を感じ引き受けた。干拓事業は1884年(明治17年)に出願、5年後の1889年(明治22年)に認可されたが、地元の反対運動、不況、大洪水などがあり着工したのは認可から10年後の1899年(明治32年)となった。全部で5,500町歩の広大な海を7区に分けて埋め立て、第1区から5区までは藤田組の単独施工で、1950年(昭和25年)に完成した。第6区は藤田組と農林省と農地開発営団が手がけ、全部が完成したのは1963年(昭和38年)で、着工以来実に65年の歳月がかかったことになる。この事業によって、第2区を中心とした干拓地に作られた村には藤田の地名が付けられた。これは後に同村が岡山市に合併された後も地区名として残されている。そのため岡山市域においては藤田伝三郎といえば「藤田村を作り上げた人」と小学校の社会の授業の地域史にて教えられることが多い。児島湾は古くは吉備の穴海と呼ばれ、クジラも時には現れ、多くの生物のいた豊かで美しい内海・干潟、豊かな漁場であった。児島湾やその干潟には、多くの専業・副業の漁師がおり、この干拓事業により広大な農地が出来たが、海や干潟の縮小・消滅に伴い、漁の生業や文化が失われてしまった。近年、児島湾締め切り堤防事業も含めた、児島湾干拓事業の環境学的・民俗学的な見地からの研究や考察も行われている。





