いつからか親教会の月例祭の前日には、有志の教師たちが、閉門後のうちのお広前に集まって、祭式のお稽古をさせていただいております。
親先生が御祭主としてお仕えなさる美しいご祭典で無様なことをしないように、ただただお邪魔にならないように、日中は準備の御用で息つく暇もなかったはずなのに、この時間を使ってのお稽古が夜遅くまで続きます。
一人一人がそこにかける熱意にはいつも圧倒されながらも、私もその一員として、お稽古を続けさせていただいております。
幼い頃、私は吉備舞を習っておりましたが、いつも春秋の御大祭でお供えさせていただくための二人舞のお稽古させていただいていました。
私の相方で舞われていたのは、代々熱心にお参りをされていたご家族の娘さんで、私の一つ上のお姉さんでした。
二人舞は左右対称となる動きがとても美しく、二人の舞人の動きがピッタリと合うまで稽古を重ねたそのお舞を、ご祭典日に神様にお供えをさせていただくのです。
幼い頃から何年も何年も二人で動きを合わせながら舞い続けるうちに、私の動きはそのお姉さんの動きとピッタリ合うようになり、そのお姉さんがたとえ私の見えない背後で舞っていたとしても、どう舞っているかが手に取るようにわかるほどになりました。
息遣いや衣擦れの音、足のする音や、その鼓動まで一つ一つ聴こえるように思えるほど、空気全体で相手の動きを感じて、合わせられるようになったのです。(だから私はよく舞い方を忘れても大丈夫だった…)
本来なら人に合わすことが大の苦手な私が、今となっては、その時に学んだことが、今の自分の力になっていると感じています。
御祭主の呼吸を読み、同じ空気の中にいられるよう全身を集中させて動く。ものすごい緊張の中でも、生きていると感じます。
今ここに集って稽古をする教師のお一人お一人も、もとはといえば無い命を神様と先生に助けていただいた人たちばかりが集っています。
自分の命だけではなく、そこに繋がる家族、氏子に至るまで、大切な人たちを日々救っていただいている、本来ならなかったはずのおかげを有り余るほどいただいているという共通の思いがあるからこそ、この御道のプロとしての自覚を離さず、ここまで一所懸命になれるんだと思います。
今年で杭瀬教会に布教に来させていただき10年目となりました。
ここまでのことを思い返しても、いつどんな時でも親教会と先生に御守りいただきながら、何とかかんとかここまで来たのは紛れもない真実で、この御恩にまだ一つも報いれてないという焦りも感じます。
ただ、私が今させていただいていることは、先生に出会ったその日から私自身が心の底から求めてしたいと願った生き方そのものであり、それがちゃんと神様に届いていることも感じています。
「しなくてはならない」ではなくて、ただ命が求めるままに歩んで来たここまでです。これからも自分が大事だと感じるものだけを大切にしこうと思います。
人からどう言われようと、人がどう思おうと関係なく、ただただ自分のたましいが求める声だけを聴いて生きていく。本当に大事なことら、非常にシンプルなものなのです。
そしてシンプルこそ一心になって願いやすく、神様のおかげをいただきやすいということも、心底感じています。
今生きてる人生は、たった一度しかないのだ…ということを思います。神様から頂いたたった一度の人生。
他人を羨んでよそ見をしたり、周りに遠慮して自分を殺して生きようとしたり、人から好かれようとすればするほど、自分を嫌いになるものです。
そうではなく、自分の命の求めに従い、しっかりと自分の花を咲かせて生きていけたら最高に幸せなのだと思います。