1月2日に父が急逝いたしました。

死因は、呼吸不全からの心肺停止。

 

1月2日の6時前に病院から電話があって、夕方の17時過ぎには息を引き取って、

本当に急で。。。

 

病院に駆けつけた時にはすでに意識がなくて、

そのまま、呼吸器と強心剤で少しでも長く延命してもらって。

 

ただ、もともとは、昨年11月24日に、元々煩っていた心房細動が原因で、

病気によりできた血栓が脳の血管に詰まって脳梗塞を発病し、倒れたのが始まり。

 

トイレで倒れている父をすぐに母が見つけて救急車を呼ぶことができて、

救急搬送されて一命は取り留めたものの、もともと人工透析をしていたり、

心臓自体も相当弱っていたりと、かなり容体は悪く、目が離せない状態が

続いていました。

 

思えばこの5年の間に何度も入退院を繰り返し、みるみる体調が悪くなっていく父の

姿を見て、早く楽になってほしい・・・と思ったこともあったっけ。

 

入院後も、脳梗塞の回復過程で誰しもが一時的に容体が悪くなるということでは

あったものの、父は自発呼吸ができなくなってしまい、

人工呼吸器の挿入に至ったのでした。。。

 

意識のある人間が人工呼吸器を挿入されるというのは、想像を絶する苦痛を伴うものだと

いうことで、麻酔のようなもので意識を朦朧とさせる処置をすることも多々あるようですが、

意志のの強い父はじっと耐えて乗り切りました。。。

 

そんな状態にまで体調が悪化していた父でしたが、12月20日には、

回復期のリハビリテーション病院へ転院することとなり。

わずか、脳梗塞で倒れて入院してから1ヶ月ほど。

 

救急搬送された病院は、あくまでも緊急の処置を行う期間のみの入院しか認められない

ということで、通常であれば2週間程度で退院させられてしまうということで。

 

私たち家族は父の病状もよくわからないまま、言われるがままに、ソーシャルワーカーの

勧めるリハビリ病院に転院したのでした。

 

父の脳梗塞は、左脳の前頭葉に発症していたため、右手の麻痺、口元にも麻痺が出て

しまい、嚥下障害が発生し、誤嚥リスクが伴うために飲食ができない状態で、鼻から胃に

送られたチューブで流動食を直接胃に流し入れるというような状況で。

 

しかも、送管されているため、チューブを誤って外すことのないよう、家族の付き添いが

ない時は、手や体を拘束されていて。見ているだけで痛々しくて。。。涙が止まらなくて。

 

さらに、痰を吐き出すこともできないので、送管して痰を吸引するというなんとも惨い対処を

一日に何度も行っていて。本当に本当につらそうで。。。見ていられなくて。

 

あとは、口元の麻痺により発話ができない言語障害が発生し、口元も常に開いたままの

状態で、そのうえ、前頭葉の損傷の特徴でもある人格変化により怒りっぽくもなり、

また記憶が錯綜したり文字や状況が正確に認識できない高次機能障害も発症しており、

少し頭のおかしい人のような状態にもなっていたりして。 

 

そんな父の姿を見るのは、本当につらくて、つらくて、つらかった。

 

そして、病気のせいだとはわかっていたものの、怒り狂う父を宥める母と私は、

日々心が擦り切れるような気持ちに幾度もなりました。

 

 

ただ、父自身も、脳梗塞の後遺症はあるものの、ほかの部分の脳は健常時と同等であり、

意識もあるわけで、自分の置かれている状態や自身の体調、各種治療の苦悩など、

真っ向から受け止めていたわけで。

 

父も本当に辛かったのだろうな、、、と心底思います。

 

私が最後に父を見舞ったのは12月30日。

脳梗塞の後遺症も少しずつではあるけれど、よくなってきているように見えていた。

母は毎日お見舞いに行っていて、亡くなる前日の元旦も普通に会話をしていたということで。

 

少しでも回復してほしい、麻痺も残らないでほしい、という気持ちから、いろいろ励ましたり、

リハビリを積極的に頑張るように背中を押したりしていたわけですが、

それって家族のエゴであったのかな、と懺悔の気持ちになったりしたり。

 

もともと口べたで、自分の気持ちを言葉に出すのが苦手だった父。

団塊の世代の代表格のような、家庭を顧みずに仕事に邁進しきった企業戦士であった父。

私と姉の娘二人に対して、常に厳格であり、厳格すぎて、

厳しい言葉と叱咤激励され続けた記憶しかない父との思い出。

 

長女である姉は、私より長い時間厳しく接しられていたし、私よりも風当たりが強かったからか

たくさん傷ついてしまった。本当に深い傷を負ってしまった。

 

私たち家族にとって、父への畏敬の念は、あまりにも深い傷となり、

刻み込まれた記憶はなかなか癒やされることはない、トラウマのようなものとなってしまった。

 

もちろん、私自身もたくさん傷ついて、悩んで苦しんで、

でも乗り越えて、やっと向き合えるようになったのに。

 

もっと優しい言葉をかけてほしかったし、

もっと一緒に過ごして楽しい思い出を残しておきたかったし、

もっと普通にいろいろな話をしたかったし、

もっと父の仕事や出自の苦悩や痛みをわかってあげたかったし、

もっともっと父への敬意や愛情を伝えたかったのに。

 

先は長くないだろうから、退院したらいろいろ話をしようと思っていたのに。

それはかなわなかった。

 

私も父譲りの口べたで、自分の気持ちを出すのが苦手だったんだな。

父譲りの性格なのだな。

 

父はカメラが趣味であり、私も姉も、生まれてから3歳くらいまでの間の写真は

本当にたくさん残っていて、アルバムはそれぞれ10冊以上。

いろんな写真が残っていて、本当に大切に思ってくれていたんだというのが伝わる。

 

私も姉も、なかなか普通には読みこなせないような変わった名前。

小さい頃から自慢だった。

 

名前は親からの初めての贈り物というけれど、

いろいろ考えて父が授けてくれたこの名前。

本当に大切に思ってくれていたのがよくわかる。

 

けれども、それを直接伝えてもらった記憶は残念ながらないのである。

すべては、私の想像で理解するしかないのが悲しい。

 

今の私の仕事への執着、プロ意識、厳格さは父の背中を見てきたから。

父が真剣に仕事と向き合ってきた姿をずっと見てきたから。

そのくらい真剣に向き合えるような仕事に就きたいと、今でも常に思っている。

 

ちょうどこの週末に49日の法要を終えて、改めて一連の事態を思い出し、

回顧録として残してみました。


これは、大好きなお花屋さんにオーダーしたお供え用のお花。


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お供え花華やかに高さを出して#花の店輪 #お供え花 #華やか


 

お父さん、本当にありがとう。 

いつまでも、私たちを見守っていて下さい。