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毎日気になる最新のニュースをチェツクします。

こんにちわ

占領を経て米国の植民地と化してしまった日本の事情を見ています。

 

★天皇制存続のために

 

 天皇とその側近グループにとって、降伏とともに天皇の戦争責任追及の

 圧力にいかに対応するかという問題が、天皇制存続そのものに

 直結していたのです。

 つまり天皇の側にとって生き残る道は、占領権力への全面協力以外に

 なかったことは言うまでもない。

 

 マッカーサーと天皇の会見は、東京裁判が開廷した46年5月末以降

 半年に一度のペースで続けられました。

 マッカーサーの在任中、11回の会見が行われています。

 

 しかしそれらの会見は、ベールに包まれほとんど明らかになっていません。

 というのも天皇の発言内容は、一般民衆にあまり知られたくないものがあり

 国としても公表したくなかったのではないでしょうか。

 

 とはいえ何らかの経緯で、一部のマスメディアに公表されることになった

 会見内容からは、両者の議論は極めて具体的で高度に政治的であったという。

 その例をみてみましよう。

 

 ●第三回目会見記録 朝日ジャーナル 1989年3月3日号

 

 この会見は46年10月16日のことである。

 そこで天皇は5月19日の食糧メーデーや頻発する労働争議について

 【日本人の教養未だ低く、且宗教心の足らない現在、米国に行われる

  ストライキを見て、それを行なえば民主主義国家になれるかと思う

  ような者も少なからず】

 と厳しく非難し、事実上の取り締まりをマッカーサーに要請したのです。

 

 この発言を当時の国民が知ったなら、おそらく激怒したことでしょう。

 わずか1年数か月前まで、一億の日本人は天皇制への限りない

 宗教心をもって「天皇の戦争」を戦っていたのです。

 

 それが敗北に終わったのは、天皇によれば日本人の

 「教養未だ低く、且宗教心の足らない」

 ためであったからなのか、、、、

 

 ★すべてをアメリカに委ねたい

 

 47年5月3日新憲法が施行され、天皇は元首ではなくなり、象徴としての

 地位が確定しました。

 会見では施行されたばかりの新憲法をめぐって、議論が交わされます。

 

 ●会談記録 日本占領3

 

  天皇はまずこう切り出しました。

 【日本が完全に軍備を撤廃する以上、その安全保障は国連に

  期待せねばなりませぬ。

  しかし国連が極東委員会のごときものであることは、困ると思います】

 

 四大国が拒否権をもっている極東委員会を引き合いに出して、国連に期待

 できない旨を強調して、マッカーサーに意見を求めた。

 

 【日本が完全に軍備を持たないことが、日本のためには最大の安全保障であり

  これこそが日本が生きる唯一の道である。】

 

 と九条の精神を天皇に説いたのです。

 

 そして天皇は

 【日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表者である

  米国がそのイニシアブを執ることを要するのでありまして、このため

  元帥のご支援を期待しております】

 

 と事実上アメリカの軍事力による、日本の安全保障を求めました。

 この議論は天皇が象徴としての、政治的行為を禁じられた新憲法の

 施行からわずか3日目に交わされているのです。

 

 天皇とマッカーサーの会見は、50年4月の第10回目が最後です。

 マッカーサーはこの後、朝鮮戦争の指揮にあたり多忙を極める。

 マッカーサーを引き継いだのは、リッジウェイという米国の陸軍軍人

 

 彼は1951年4月から1952年4月まで、第二代連合国軍最高司令官として

 日本の占領統治にあたりました。

 彼は朝鮮戦争で、窮地に陥った国連軍を救い出したことで有名です。

 

 ★二重外交の果て

 

 講和条約と安保条約をめぐり天皇外交ともいうべき、天皇の政治的

 行為をみてきました。

 公的な外交主体であるのが、吉田外交です。

 あの当時、日本は二重外交をしていたのです。

 

 公的な外交である吉田外交は、天皇外交によって封じ込められてしまった

 というのが事実です。

 マッカーサーが解任されて5か月後、1951年9月8日

 日本はサンフランシスコ講和条約と日米安保条約に調印しました。

 

 講和条約はサンフランシスコの豪華なオペラハウスで、安保条約は

 サンフランシスコ郊外の米国陸軍の基地の中で

 米国側は4人 アチソン、ダレス、ワイリー、ブリッジス

 日本側は吉田首相ただひとり

 

 なぜこうなったのか、こういうアンバランスなことは普通外交の

 世界では起こりません。

 でも、二重外交で吉田外交が封じ込められたとしたら、、、

 吉田は天皇の命令をたったひとりで背負ってこの安保条約調印に

 臨まなければならなかったとしたら、、、、

 こういうことも起こり得るでしょう。

 

 安保条約とは、交渉の最高責任者が署名を固辞し続ける中で

 ダレスと天皇の圧力によって締結に至ったのです。

 交渉の最高責任者とは吉田首相です。

 吉田は国を売る真似はできないとして、安保条約に署名することは

 できないとして固辞し続けた。

 

 もし吉田がそのような条約に署名していたら、袋叩きにあうだけでなく

 命もなかったでしょう、、、、

 

 豊下楢彦著安保条約の成立

 

★屈辱の安保条約

 

天皇がポツダム宣言を受諾し、日本は終戦を迎えました。

そしてアメリカの占領下に置かれます。

そのポツダム宣言は、日本は連合国最高司令官のすべての要求に

従うことが書かれてあります。

日本は連合国最高司令官マッカーサーの要求にすべて従わなければなりません。

 

そして日米の安保条約が結ばれるのですが、現行の安保条約はあまりにも不平等で

何のための米軍基地であり、何のための安保条約か、、、という

根本的な問いを日本国民は突き付けています。

 

日米安保交渉の主要関係者は

アメリカ側  ダレス    アメリカの政治家

       マッカーサー アメリカ陸軍元帥

 

日本側   吉田茂

      西村熊雄    外務官僚

 

ということになっています。

それではどういう経緯でこのような不平等な条約が結ばれたのでしょう。

 

★日本が用意した条約案 西村熊雄

 

日本が用意した条約案とは、51年1月末に米大統領特使、ダレスが来日し

日米間での第一次交渉が開始されるにあたり、吉田茂首相支持の下

外務省事務当局が練り上げた 

【安全保障のための日米協力に関する提案】

のことです。

 

この条約の根幹をなす趣旨について、西村は繰り返し次のように

言及しています。

「合衆国が日本を防衛するのは、何も日本のみのためでなく

 日本を防衛することは、同時に合衆国を防衛することである。

 だから日本について、両国間に共同防衛の関係があるべきである。

 だから日本国は、合衆国軍隊の駐在に同意する」

 

 というのが日本提案の趣旨であり、日本は終始この立場を取りました。

 西村が強調したかったことは、

 「日本の安全は、同時にアメリカの安全であり、したがって日本が

  アメリカに基地を提供し、アメリカが日本を防衛することによって

  両者は国連憲章第五一条が規定する、集団的自衛権の関係立つ」

 ということでした。

 

 しかし現行の安保条約は、西村が言及した趣旨にはなっていません。

 結局、締結された日米安保条約は、国連との関係もはっきりしないし

 日本が攻撃された場合のアメリカ軍隊による防衛の確実性さえも

 問題視されるようなものでした。

 

 敗戦国であり、被占領国である日本にとってそれは

 仕方のないことなのでしょうか。

 西村の意図した趣旨に少しでも近づくような、道をさぐることは

 できなかったのでしょうか。

 

 ★天皇会見

 

 日本が降伏し米軍が占領を開始してから、一か月後の1945年9月27日

 昭和天皇は、はじめてマッカーサーを訪問しました。

 この時、天皇が何を語ったかがマスメディアや一部の研究者の間で

 あたかも史実であったかのように扱われてきたのが

 【私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての

  決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する

  諸国の裁決にゆだねるためにお尋ねした】

 

 という有名な一節です。

 

 この感動的なエピソードは、大きな反響を呼びましたね。

 しかし、75年11月に作家の児島氏が文芸春秋に公表した会見で

 通訳を務めた外務省の奥村勝蔵が記録したとされる手記によれば

 

【この戦争については、自分としては極力これを避けたい考でありましたが

 戦争となるの結果をみましたことは、自分の最も遺憾とする所であります】

 

 と遺憾の意の表明はあるが、全責任発言は見られないと言う。

 さらに奥村は

 「私はこの会談の後、すぐその記録をつくりそれは外務省に残っている」

 と述べています。

 

 外務省や宮内庁が公式記録を公表すればいいだけなのに

 それをしないということは、奥村の述べた通りなのでしょう。

 全責任発言があれば、外務省や宮内庁は真っ先に公表するでしょう。

 だって天皇の名誉になる発言だから。

 

 50年4月18日、昭和天皇とマッカーサーの10回目の会見が行われた。

 1回会見から10回目と天皇は、マッカーサーと会見を続けてきた。

 このように天皇は、安保条約の締結に深くかかわっています。

 

 安保条約交渉の主要関係者は、表向きは先に挙げたあの4人ですが

 昭和天皇を加えて実際は5人というべきでしょう。

 安保条約は吉田茂のワンマン外交の所産として、吉田だけが

 表ざたにされ悪人扱いにされてきましたが、事実はどうなのでしょう。

 

 吉田茂はあの当時の日本の首相です。

 しかしその上には天皇がいて、さらにその上にはGHQがいて

 さらにそのGHQには連合国最高司令官のマッカーサーがいました。

 降伏文書には、連合国最高司令官の要求にはすべて従わなければ

 ならないのだから、吉田といえどもマッカーサーからみれば

 ただの奴隷です。

 

 ★天皇による安保条約の締結

 

 結論から言えば、安保条約はダレスと昭和天皇の圧力によって

 締結に至った条約です。

 つまり安保条約の基礎は、昭和天皇によって作り出されたのです。

 

 47年5月日本の安全保障は、アメリカの軍事力による構想を

 マッカーサーとの第四回会見で提起し、要請しています。

 さらに安保条約を根底で支える、沖縄問題についても天皇は

 早い段階からイニシアチブをとっています。

 

 ●天皇の沖縄メッセージ

 

 アメリカによる沖縄軍事占領 47年9月

 【25年から50年あるいはそれ以上にわたる長期の貸与】

 

 という有名な天皇の沖縄メッセージです。

 

 天皇は、当時沖縄の安全を考えてこのようなメッセージを送ったのか。

 天皇のメッセージの内容の中に、沖縄の安全の問題は一言も出てきません。

 それより、沖縄の軍事占領が米国の利益になるとともに、日本の防衛にも

 供するであろうとの見解を表明しています。

 

 そして日本が直面している危機は、ロシアの脅威と日本の内部への干渉を

 上げています。

 つまり米軍占領下の沖縄は、ソ連による日本本土への直接間接の侵略に対する

 防波堤として位置づけられていたのです。

 

 7月10日、近衛文麿を天皇の特使としてソ連に派遣した。

 問題は連合国側に提示する和平交渉の条件です。

 近衛がまとめた条件の項では

 【国土に就ては、なるべく他日の再起に便なることに務むるも

  やむをえざれば、固有本土をもって満足す】矢部貞治 近衛文麿下

 

 と記されていた。

 

 ●固有本土の解釈について

 【最下限、沖縄、小笠原島、樺太を捨て千島は南半分を保有する程度とすること】

 と説明されています。

 つまり沖縄は、日本の固有本土ではなく、和平条件として連合国側に

 捨てられるものと位置付けられていたのです。

 

 近衛文麿の特使派遣が実現していれば、沖縄は文字通り捨てられていたのです。

 天皇やその側近にとって沖縄は、一貫して本土防衛、国体護持のための

 手段であり、捨て石とみなされていたのです。

 

 そして結果として沖縄は、事実上米軍支配下に置かれるという

 歴史を歩むことになりました。

 こうして本土の全土基地化と日米の防波堤としての沖縄軍事占領からなる

 安保体制が形成されることになりました。

 

 

 安保条約の成立 著豊下楢彦

第一総軍第二総軍を壊滅させて、いよいよ天皇は戦争を終わらせようと

8月14日、午前11時50分最高戦争指導会議と閣議が、天皇招集の下

開かれました。

午後8時天皇は終戦の詔書に署名しました。

 

しかしこの詔書はとても読みづらく、わざと難解な言葉を使い

国民は全く内容がわかりづらかったと言います。

意味の解らない終戦の詔書では、困るので読売新聞社編「昭和史の天皇」

第三十巻の口語訳を記載しました。

その終戦の詔書を見てみましょう。

 

 

★終戦の詔書 終戦は誰のため

 

●戦争を始めた理由

 

【先に米英二国に宣戦せるゆえんも、また実に帝国の自存と東亜の

 安定とを願ったためであって、いやしくも他国の主権を押しのけたり

 その領土を侵略するようなことは、もちろん私の志とは異なる。】

 

 天皇が米英二国に対して、宣戦したと宣言している文章です。

 日本は中国、朝鮮の領土を侵略しました。

  中国、朝鮮の主権を押しのけました。

 

●終戦に至った理由

 

 【戦局は必ずしも我が方に有利に展開したとはいえず、世界の情勢も

  また我に不利である。

  そればかりでなく、敵は新たに残虐な爆弾を広島、長崎に投下し

  その惨状はどこまで広がるか、計り知れないものがある。

  このような状況下にあってもなお戦争を続けるなら、わが日本民族の

  滅亡をきたすようなことにもなり、人類が築き上げた文明をも

  打ち壊すことになるだろう。

  それではどうして、わが子供にも等しい国民大衆を保護し

  歴代天皇の御霊にお詫びできようか。

  これこそ私がポツダム宣言を受諾した理由である】

 

 ポツダム宣言を受諾した理由は、原爆投下だという。

 詔書ではそういうことにしているが、戦争を終わらせるために

 ポツダム宣言を受諾したのは、国体護持のためです。

 

 戦争終結のための企画は、支配層内部のイニシチアブによって進められ

 国民大衆の伺い知ることのできぬ雲の上で進められました。

 終戦工作の中心的推進役となったのが、前首相級の重臣たちです。

 

 近衛文麿は、44年7月の重臣会議で、国体護持のためには

 戦争を1日も早く集結せねばならぬと説いている。

 米内光政も、皇室の擁護ができさえすればよい、、、と語った。

 つまり重臣たちは、国体護持、天皇制支配機構を温存するために

 戦争を終結させたいと考えたのです。

 

 降伏はそういうことに基づいて実行されたのであって

 国民を戦災から救うためになされたものではありません。

 

 

 怨嗟の声で、民衆の間に潜在的に流れていた反戦意識は

 戦局の悪化、国民生活の破壊の進行にともなって

 しだいに強くなり全国的に広まっていったのです。

 

 そして,早く降伏しろ、、、といった国民の訴えが多く

 このまま負け戦争を続けていては、天皇への恨みの声も増し

 皇室を恨む意識が強くなり、支配階級もこのまま戦争を続けていれば

 国体護持が困難になると判断したから、ポツダム宣言を受諾したのです。

 

 

●国体護持宣言の終戦の詔書

 

 【かくて私は国体を護持した。

  私は国体を護持し得たとともに、国民の真の心に信頼しながら

  いつも国民と一緒にいる。】

 

 この終戦の詔書は、敗北宣言ではなく国体護持宣言です。

 

 そして最後に

 「敗戦はあなた方の罪です、一生懸命働きましたか。

  大君のため、すめら戦さということを忘れませんでしたか。

  いいえ忘れていたでしょう」

 

 という敗戦の責任を国民に転嫁する発想も忘れず、しっかりと

 国民に植え付けておいた。

 そのうえで、降伏という言葉を避けて、ポツダム宣言受諾とか

 終戦、、、というみえすいたごまかしの言葉を用いたのです。

 

 ●この終戦の詔書の本質をもっとも深く分析したのは

  マクマホン ポール メルボルン大学教授です。

 

 【敗戦が決定してから、天皇と日本政府の真の態度を示す最も

  意味深い文章である。

  占領期間中、とるべき戦術と戦略であると私は確信する。

  一つは占領者の命令に対する完全な外面上の服従であり

  もう一つは、占領者の意志に対する持続で、精神的抵抗である。

  この詔書は降伏という言葉を使っていない。

  天皇はただ時局を収拾すると決意したにすぎない。

  そして日本の侵略を正当化する、奇妙なまでに厚かましい試みがなされる。

  天皇は帝国の自存と東亜の安定を庶幾する誠実な願いで

  戦争を宣言したと言うのだ。

  そして日本が無条件降伏に至ったことは、何も示唆されていない。

  むしろ戦局は好転せず、、、だった。

  そして最後にポツダム宣言受諾が、日本に国体護持することを

  得せしめたという。】

 

 そして終戦の詔書は、最後に

 ただただ堪えがたきを堪え、忍び難きを忍んで、人類永遠の真理である

 平和の実現を図ろうと思う、、、で終わります。

 

 それでは最後に、松浦総三の文章を見てみましょう。 

★天皇裕仁と地方都市空襲  松浦総三

 

 終戦の詔書は、全文が詐欺の文章である。

 筆者は10回以上この文章を読んだが、恐るべき文章である。

 全文が詐欺と書いたが、決して言い過ぎではない。

 

 それは詭弁、すり替え、ほおかぶりの連続で、国体天皇制を死守するための

 グロテスクな文章である。

 裕仁が無条件降伏をなぜ終戦と言い替えたのか。

 降伏や敗戦ならば、戦争責任や敗戦責任を負わなければならぬ。

 しかし終戦にするとその辺は、あいまいになる。

 戦争責任を逃れるためである。

 

 裕仁は、NHKの記者会見で(1975年10月31日)、戦争責任は?と

 質問されて

 「そういう文学方面は、あまり研究していません」と
 にべもなく答えている。

 しかし終戦という言葉を発明して、戦争責任を逃れたあたりは

 相当の文学方面に詳しいと言わざる得ない。

 

 そして次に15年戦争を始めたのは、

 「帝国臣民の康寧はかり、万邦共栄の楽を共にする」ことであり

 「帝国自存と東亜の安定とを庶幾する」

  ための防衛戦争だと言う、なんと図々しい言葉であろうか。

 

 この部分の裕仁理論の最大の弱点は、日本人ならば朝日新聞と

 NHKの応援で、ごまかすことはできても、中国や朝鮮フィリピン、マレーシア

 インドネシアなど軍靴で踏みにじられた、アジア諸国にとって

 裕仁が始めた15年戦争が、侵略戦争でないなどとは、とんでもないことであろう。

 

 裕仁を東京裁判の法廷に引きずり出せなかった、裁判長ウェッブでさえ

 次のように言っている。

 【天皇をも裁かないようなら、戦争犯罪人は誰も死刑にすべきではなかった

  というのが著者バーガミニの意見であるが、私も全く同感である】

 

 裕仁理論=終戦の詔書によれば、アジア諸国に対する侵略も

 防衛戦争の一環となる。

 裕仁はこの理論を盾にとって、南京大虐殺、シンガポール虐殺、重慶第爆撃

 朝鮮人強制連行、慰安婦問題などを黙殺しようとするのだ。

 

 そのような防衛戦争、つまり「正義の戦争」も敵は新たな残虐なる

 爆弾を使用して、「無辜を殺傷す」としいうわけで、終戦せざるを得なくなる。

 この部分は、裕仁の昭和天皇独白録で

 【ソビエトはすでに満州で火ぶたを切った。

  これではどうしても、ポツダム宣言を受諾せねばならぬ】

 と本音を言っていることと完全に矛盾する。

 

 歴史的事実として、裕仁がポツダム宣言を受諾したのは、ソ連参戦によって

 ソ連の発言権が強まれば、国体、天皇制が危うくなるからである。

 原爆を投下された8月6日や8月9日は裕仁は

 【なるべく早く講和を】

  と言っている。

 

 それがソ連参戦で、即時御前会議が開かれるのだ。

 というわけで正義の戦争は、終戦となる。

 

 では、戦死者、戦災者の遺族はどうなるのか。

 それを思うと朕は、【五内為に裂く】とオーバーなことを言う。

 が、時運おもむくところ、

 【堪えがたきを堪え、忍び難きを忍び】と言うのだ。

 

 五内為に裂く、、、と言っているが、その内容は被爆者援護法や

 空襲の補償はしないぞ、、、、ということであろう。

 そして終戦の詔書の一番肝心な

 【朕はここに国体を護持し得て、】

 という天皇制継続宣言になるのだ。

 

 こんな詭弁、嘘八百、すり替えに満ちた文章は、世界史の中にも

 そうざらにはないだろう。

 しかもこの理不尽な裕仁理論は、今もハツラツと生きている。】

 

 この終戦の詔書は、敗北宣言ではなく、国体護持宣言です。

 この終戦の詔書は、8月15日正午、玉音放送として

 大日本帝国臣民の耳に届いた。

 

 しかしその全文が問題化されることはなく、ただ

 堪えがたきを堪え、忍び難きを忍び、、の部分だけが

 毎年反復されるようになったのです。