硬球がバットに当たる音が、遠くグラウンドから聞こえた。
掛け声。オレンジの空を藍が染める。夜へと駆け足で抜ける。

私はというと美術室ひとり残り、授業時間で完成できなかった課題をしていた。
真面目に取り組んではいたけど、凝り過ぎて完成しなかったのだ。
皆もっと適当に終わらせていたのは授業が終わってから気づいた。
相変わらず馬鹿だ。要領悪い。
カッターを握る手がやたら重く感じた。心と同じく。
この学校の閉塞感は、苦手だ。ゆったりとした時間の安堵感もあるのだけれど。
時間の流れが遅い。

浮腫んだ足にはきつ過ぎたし、もうすぐ夏になっていく季節には夕暮れ時といえど暑過ぎたので靴下を脱いだ。
裸足になった足に床の冷たさが心地よい。まとめた紺色の靴下は上履きの上に置いた。
窓際の水道から規則的に水滴の落ちる音がした。アルミニウムの薄い板に当たる鈍い音がする。何故だか分からないけど、心地よい音のように思えた。
教室の中の空気の滞りが不快に感じたので、教室のドアを開けた。どうせこの時間にはもう人は殆どいない。
瞬間、風が廊下に沿って抜けたのを感じた。風は北向き。いくらか蒸し暑い感触だったけど、さっきよりはずうっといい。
席に戻ると私は窓を見た。知らない間に武蔵野の広い空は夜へと変わっていた。そういえばもう、野球部の掛け声も聞こえない。
決して交通量が多いとは言えない学校前の通りの、車が流れるザーという音だけ聞こえた。
ここでの空は、前見たのより天が高く感じた。広い。深い。どこまでも続く。
それを見たら、いつもどこにでも行けると思えた。どこにも行けないとも。

MDプレイヤーのヘッドフォンからは好きな曲が流れている。お気に入りの曲ばかりを集めたMDの中でもとりわけ2番と10番が好きな曲だった。疾走感あるセンチメンタリズム。
MDに入ってる曲名をざっと見て、改めて音楽の趣味は数年前から変わってないなぁ、と思った。流行の曲はあまり分からない。
そう思うと、急に不安になった。無条件に新しいもの、刺激的なものを拒む自分が。今流れてる曲も本当に好きで聞いているのではなくて惰性で聞いてるだけかもしれない。
廊下で華やかな話をしてる同級生を見て蔑視した。虚構だと。一方確かに羨望。
自分には無理だなーと。

携帯のサブウインドウの時計を見た。もうすぐ八時になろうとしていた。
結局、課題は終わらなかった。
私は机の上に伏せて、深呼吸をした。使い古された机の木の粉の匂いが鼻腔に充満した。
この教室は埃っぽい。
そういえば、小学校も中学校も美術室はこんな埃っぽい匂いがしたよなぁ、とふと思った。と同時に、そこでの色々な出来事か走馬灯の様にくるくると頭を過ぎった。

それと同時に、涙が何故だか出たのだ。
傾斜を転がるようなストーリー展開に、胸が苦しくなった。心音が走る。
二時間前には想像だにしなかった。感じた強い流れ。
頭の中がぐらんぐらんする。非現実感の海に飲まれる感覚。一種の浮遊感。
これは嘘だ。と思い込もうとした。多分疲れがそうさせたと。
腕に軽い痺れが走った。喉が渇く。


私は軽く支度を済ませると、見慣れた公園に走り出す。
足が竦む。自然とブレーキがかかる。
理由の分からない恐怖と、高揚感の葛藤。
遠近感が狂った様な感覚がした。歩く度に、目的地は遠く。遠くへと逃げる。
何時も見慣れた景色が、かすんだ。滲む。歪む。
空気は冷たい。澄んだ匂いが呼吸の度に喉を、鼻を抜けた。
風を切る。


公園に着くと軽く深呼吸をした。目を閉じる。
少し空を仰いで、再び目を開いた。