Microworlds
おまえは外出するまでもない。おまえの机にとどまって、耳を澄ましておいで。耳を澄ますまでもない。ただ待っておいで。待つまでもない。しずかに、ひとりでいるがいい。するとおまえに、世界が素顔をのぞかせる。そうしないではいられないからだ。おまえの前で、うっとりと身をくねらせる。(池内紀訳『カフカ小説全集6 掟の問題ほか』)今日は『カフカ小説全集6 掟の問題ほか』を読んだ。分厚い本なのだけれど、池内紀の訳は平明なのでスラスラと読むことができた。そして、書くことの喜びについて考えた。喜び……私がブログを続けるのは、書くことが楽しいからだ。カフカもきっとそうだったのではないだろうか。なにがなんだろうと、自分の中に書くことによってしか癒やしえないなにかがあるから、書き続ける。どんなことがあっても……。カフカは生前、小品集しか発表しなかったという。だが、彼は『変身』の他にも長大な小説『訴訟』『失踪者』『城』といった長大な未完の小説を残し、膨大な量の断片をノートに書き続けた。実を言うと私はカフカと同じ7月3日に生まれたので、カフカと同じような人生を歩むのではないかと思っていたことがあった。恥ずかしい、若気の至りというものだ。40がカフカの享年なのでそれが自分の人生の終着点……そう思っていたのだ。だが、私は今生きている。カフカの年齢を追い越して。カフカが40年かけて残せたようなものをなにひとつ残せず、今の年齢になってしまった。……これから? いや、もう遅すぎるかもしれない。45歳。でも、『掟の問題ほか』を読んだことで勇気をもらったような気がした。カフカのように自由に、伸び伸びと書きたいと思ったのだ。いや、カフカは自分の書いたものに終生苦しめられた人なのかもしれない。書いても書いても未完に終わってしまう作品、辛うじて書いても理解されない作品。だが、カフカは自分を信じていた。でなければ作品を発表したりしない。だから、今日からカフカに倣って自分なりの作品を書き続けていこうと思う。いや、これもいつまで続くかわからない。今のところ、その日その日の気分でエッセイを書いたり小説を書いたり、書きたいものを書きたいがままに書こうと思っているのだった。だが、私は移り気なもので飽きたり投げ出したりするかもしれない。カフカばかり読むわけではないので別の作家や哲学者を読んで、それを基に考えたりするかもしれない。でも、それでいいのではないかと思う。私は外に向かって自分を開き続けていたいのだ。あらかじめ頑なに計画を立ててなにがなんでもその通りに書くのではなく、たまたまキャッチした一節に導かれてなにかを考え、それについて書く。いや、書いて、それから考える、というように。一日一日(むろん、毎日更新できるとも思わないが)、その日その日。その日に書いたことがそのままひとつの世界であり、それらの世界が重なり合うことで新たな世界を作り出す。そういうようにしてブログを書き続けていきたい。そう思った。だから、新しく始めることにした。ひとまず、カフカを読もうかと思う。それから古井由吉を読み、読めるようならルイーズ・グリュックの詩を読もうと思っている。だが、これもいつまで続くかわからない。計画通りに進むような人生を生きているわけではない。カフカだって生きることは絶えずわき道に逸れることだ、と言っていなかっただろうか?