天正3年5月21日(1575年6月29日)。
武田勝頼軍と織田信長・徳川家康連合軍が激突した、長篠・設楽原の戦い。
いくつかの寺院神社が武将たちの陣所となり、現在でも辿ることができる場所があります。
 
医王寺。
武田勝頼の本陣地とされています。
 
寺院後背の山に陣所跡、物見台があります。

 
 
大通寺。
武田信玄の時代から仕える重臣にして猛将、馬場信房の本陣地とされています。
出陣前、諸将が集まり訣別の盃を交し合ったという「水盃の井戸」があります。
 
武田軍、当初の主攻目標であった長篠城は、指呼の距離にあります。

 

長篠城御城印まとめver1.0。

 

勝楽寺。

武田信玄時代からの重臣、山縣正景の陣所とされています。

今回、新たに撮影した現地写真でまとめました。

 

決戦場となる設楽原、そして対峙することになる連吾川から至近の距離であることがわかります。

 

織田信長本陣地。

新東名高速道路長篠設楽原下りPAの敷地内にあります。

高速道路に乗らなくても、外部一般道経由でアクセスできます。

寺院神社では無いため、御朱印的なものはありません。

 

連吾川沿いの自陣、そして敵陣域まで見渡せる絶妙な位置に本陣地を敷いています。

信長は完全に自らの戦場をデザインしていました。

 

八剱神社。

 

徳川家康の本陣地と伝わります。

 

近隣の新城市設楽原歴史資料館で、いくつか尋ねてみました。

 

こちらの神社は地域の氏神さまで、神職さんは非常駐。

年に数回の祭事時のみ、開所される。

どこの神社の兼務社、摂社であるかは不明でした。

 

ほとんど最前線の位置にあります。

織田信長と徳川家康。

同盟と言えど、主従は明確であった関係性から、督戦されてこの位置になったであろうことが伺えます。

 

 

[探訪610]は、参加武将の陣所というテーマに絞らせてもろうた。
馬場信房殿ほか、討死された武田方武将の墓所、墓石は地域一帯に点在しておる。
今回のテーマからは、はずれるため割愛した。
ご興味のある諸兄は、各種HPを参照してくだされ。
 
長篠・設楽原の戦いには、わが父の真田昌幸も勝頼殿の近習として参加しておる。
そして、叔父の信綱、昌輝が討死にされた。
真田家巡礼者なら、忘れずに訪れて欲しいところであるぞ。