天正三年(1575年)、長篠・設楽原の戦い。
徳川方に寝返った奥平家を討伐するために、武田勝頼が起こした出兵に端緒を発します。
 
武田軍は、奥平信昌ら約500の兵が立て籠もる長篠城を陥落させることができません。
 
織田信長・徳川家康連合軍の約38000の兵と、武田軍約12000の兵は、設楽原で激突します。
(信長の3000の鉄砲兵による三段打ちについては諸説あり)
 
武田軍は、多くの重臣を失い致命的敗北を喫します。
 
そして、自国領地に至る、長い敗走路を辿ることになります。
(武節城パンフより)
 
愛知県北設楽郡設楽町:田峯城(だみねじょう)。
城主・菅沼定忠は勝頼とともに出陣するも敗北。
留守役の叔父・定直の謀反に遭い田峯城に入城を拒絶される。
 
愛知県豊田市武節町:武節城。
武田勝頼がこの地にて一夜の宿をとり、甲州に帰還しました。
 
長篠・設楽原の戦いのあと。
武田家は滅亡というイメージを持たれる方は多いと思いますが、さにあらず。
その後も約二年以上の間、積極的な領土拡張と進軍を続けました。
 
今回の御城印を主とした探訪はここまで。
準備でき次第、御朱印で巡る長篠・設楽原の戦いを探訪したいと思います。
 
 

 
 
長篠・設楽原の戦いは、長篠の地だけではその全容が掴めない。
長篠から田峯城、武節城。
実際に辿らないと、その果てしなく長き敗走路は体感できないぞよ。