下田市、宝福寺
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了仙寺と並び、下田有数の観光地でもある。
港町下田は、幕末期ペリー艦隊来航以来の江戸幕府と米国側の交渉窓口として要所となった。
黒船=最新鋭の軍艦で乗り込んできた米国。
砲艦外交、ほとんど脅しの強圧的態度で臨んできた。
軍事的に対抗策を持たない幕府は、江戸に近づけたくない思惑もあった。
時間稼ぎも必要であった。
宝福寺は、下田の奉行所(警察署)でもあった。
そして、初代米国総領事ハリスに仕えたお吉=唐人お吉の墓所でもある。
ここでは、お吉については割愛する。
開国史跡御朱印巡礼記にて、あらためてピックアップする。
境内に唐人お吉記念館が併設されている。
御朱印はこの中の売店でお求め下され(書置き。運が良ければ直書きしてもらえる)。
お寺的な御由緒からは、もともとは「お吉押し」だった。
坂本龍馬と土佐藩主山内容堂が謁見した歴史的事実はあり、全国的レベルである龍馬人気を鑑み、
記念館はリニューアルされた模様。
「盃」
山内容堂、勝海舟が坂本龍馬の脱藩罪をゆるしをめぐって交わされた(解説文)。
「鯨海酔候の白扇」
山内容堂が坂本龍馬脱藩をゆるした証しとして勝海舟に渡した(解説文)。
※鯨海酔候、読んで字の如く、大酒呑みのこと。山内容堂は自らをこう称した。
「容堂さま、どうか龍馬を許してやってくれんかな。これからの日本のために必要な男なんです。この勝海舟が責任を持って預かりますゆえ」
「…、うむ、お奉行の勝さんが直々にそこまで言われよるなら…。こいつは剣の腕は立ちよるが、どうも、ふらふらしてイカンきに」
イマドキに例えるなら、
土佐藩主山内容堂は。独立採算性で独自の軍を持つ王政的な県知事。
勝海舟は政府高級官僚。
容堂のほうが格上であるから、このような感じではないかと想像。
この下田の地で龍馬は飛翔した。
まぁ、開放された、ですな。
(龍馬は海=海運に出たわけだから、雄飛のほうが言いえて妙かもしれない)
つづく。
次回、完結。