気づけばこうなっていました。

という現象には、

「はじめ」が勿論あって、


はじめの「決める」という一手が、

気づけばこうなっていた。

に成る。



で、「決める」とは、一体なにか?

というと、


目標を持つだったり

絶対とするものだったり

ではなくて、

「自分の理想や望み」に

気づくこと・認識すること、

そして、それに対して

どうして行こうかと「目を向けること」

が、

「決める」という行為になる。




人は、

ナニカをしなければいけないだとか

目標を掲げなければいけないとかを

無意識にも、

ソレが大切で素晴らしいことだ

と捉えやすい。


ソレが燃料となり発揮できる人なら

良いのだけれど、

ソレにより自分を縛ることが

増えるのならば、

見方を変える必要はあったりする。



そういう人は、

「なにもしないこと」を選んでもいいし

目標を掲げなくてもよくて、

それよりも、

自分の理想だったり望みを

ちゃんと理解することの方が

何倍も燃料になり発揮する力と

なったりする。



自分を知るとは、

そういうことでもあって、

言い方を変えると、

常にナニカをしようとする

目標を掲げることで発揮する人というのは、

その理想や望みを

常に理解しているから発揮している

ということだったりする。


ナニカを起こすことが

存在意義のように感じやすい時代でも

あるけれど、それは、

なにもしない勇気とも手を取ることで、

じぶんという存在を

解放発揮させれるのだと

おもうのです足あとキラキラ





フと思い立ったので書いてみました足あと

ありがとうございます風船














はじめましての方はこちら♪からひらめき電球