産まれて直ぐに重篤な状態から、一時的に呼吸も止まってしまった孫は、一命を取り留める事が出来た。


夜に診察をしてくれた医師はそこから一睡もせずに孫に付きっきりで救命措置をしてくれた。


次の日の朝に真っ赤な目をして通常の普段の診察をしている医師に話を聞き、さゆりはこの先生こそ大丈夫なんだろうかと、医師に対して心からありがたいと感謝をすると共に心配にもなった。


近頃では何かと問題が起きやすい小児科や産科の医師を目指す人がいないと言うが、さゆりはこんな医師がいてくれた事に本当に心強く頼もしく感じ、いくらでも礼を表したい気持ちであった。




しかし孫はその時の事が原因かどうかは別にして、その成長と共に孫の両親はもちろんであるが、さゆりでさえも不安を感じるようになって行った。


笑わない。


目があわない。


喃語でさえ言葉を発さない。


歩けるようになると、動き回り落ち着かない。


食事の時にスプーンや箸を使えない。


何より偏食が激しくポテトフライしか食べない。


睡眠障害だと後から知ったが眠らない。



成長と共にそれらの状態はさらにひどくなっていった。


孫はいろいろな病院での診察の結果、重度の自閉症、発達障害と診断され障がい者として認定された。


それらの診察、診断の場所に上の孫を世話する為にさゆりも娘達夫婦の側に立ち会っていた。


情報社会の現在、娘達夫婦はその時には自分達の長男であるこの子の事をある程度恐る恐るわかっていた。


さゆりはなんて話しかけて良いのかさえ言葉もなかった。

それでも何かを言ってあげなくてはと、


「この子があなた達の子供に生まれてきたのも、何か意味があるんだよ、きっと…」


と、その場にそぐわない言葉を言ってしまっていた。

娘は、

「今はそんなふうに思う余裕はないし、考えられない…」と…


言う言葉が見つからない時は何も言うべきではないのであろう…





成長とともに孫の療育は壮絶な事になって行った。


娘は仕事を続けては行けなくなり、そんな孫に付きっきりになった。

婿であるその子の父親は自身の仕事での重圧や、障がい児を育てる責任感からか体調と精神を崩しがちになって行った。


それでも娘は何もわからない所からいろいろな情報を仕入れ、使える権利、助けていただける人や施設、制度を調べ上げた。


思っていたよりそんな子供を育てている親は多く、娘達もいろいろな方達に助けられながら現在まで生きて来れたようであった。


その頃には娘達は婿の仕事の転勤によりさゆり達の近くから離れてしまっていたので、手を貸したくても十分に出せない状態であった。

たまに娘が婿を気づかって孫たちを連れて帰省する事があった。


成長と共に体力のある孫の世話は大変であった。


大きな声で奇声をあげる。


部屋の中を激しく動きまわりソファやテーブル、階段の手すりを上り、見ているさゆり達もハラハラするのである。

娘と言えば慣れたものであった。

自宅の狭いアパートでは隣近所に気を使い休まる事のない娘であったが、一戸建ての実家では最低限でも他所様に気を使わなくて済むのであったから…


娘達のアパートの横の一戸建ての住人であった主婦(60代)はそんな孫や娘達にあからさまに苦情や嫌味を言う人であった。

ただアパートの横の一番迷惑をかけているであろうあばあさんは娘達に理解をしてくださり、そんな孫を良く可愛がってくださる方であった。


娘と言えばもう達観でもしているのか、苦情を言う隣人にも普段から明るく挨拶をして、

「そんな人もいるし、なんならそんな人ばっかりだよ〜、だけどアパートのお隣のおばあちゃんには本当に申し訳ないし、子供を可愛がってくれるからありがたいのよ」と…



古い考えも持つ夫が、孫の様子に親のしつけの足りなさを言っていたりするわけであるから、

他人様が知らずに言う事など、それまで孫を一生懸命育てて来た娘にとって気にしても仕方のない事なのであった。


他人の目、他人の言葉、そんなものシャットダウンしなければこの子供を育てていけはしない、


娘の親としての覚悟を知るさゆりであった。