男もすなる日記というふものを女もしてみむとてするなり
国家管轄権
キーワード: 国家管轄権、立法管轄権、裁判管轄権、執行管轄権、域外適用、権原、属人主義、属地主義、受動的属人主義、保護主義、普遍主義、効果原則
1、国家管轄権とは
国家管轄権とは、国家が国内法を定立し、執行する権限のことをいい、国家の統治権のなかで中心的な位置をしめる。管轄権のうち、法の定立の側面を立法管轄権といい、法の執行の側面を執行管轄権と呼ぶ。また、裁判所による具体的な法の適用の側面を裁判管轄権と呼ぶ。裁判管轄権や執行管轄権は、立法管轄権が行使される事項に対して行使されるという関係に立つ。
2、域外適用
国内において管轄権を行使することに対して、国際法上の問題が起こることはまずない。しかし、最近では国内法を外国人が外国で行った行為に対しても適用するような事例がある。例えば、米国所在のマイクロソフト社が日本の独禁法に違反する方法で販売を行ったとして、公正取引委員会が同社に対して警告を行った事例がある。また、チリの元国家元首であるピノチェトを、英国警察がスペインの要請に基づいて、殺人容疑で逮捕したピノチェト事件も同様の例と考えられる。このように、自国外で行われた行為に対して自国法を適用することを、国家管轄権の域外適用という。
近年、個人が国境を越えることが容易になったり、特に経済分野においては、国際的に活動する多国籍企業の活動が目立つ。こうした国際社会事情の変化にともなって、国家管轄権の域外適用の事例も増えている。ここで問題となるのは、複数国家の管轄権が重複するケースである。国家管轄権の域外適用は、領土外に及ぶために国家間紛争に発展する恐れもある。
3、立法管轄権の権原
管轄権を行使するためには、行使のための根拠(権原)を持つことが必要とされる。国家が刑事法分野において無条件に立法管轄権の権原とされるのは、属地主義、属人主義のふたつである。属地主義とは、領土を権原とするものであり、その領土内の人、もの、または起こった事項に対して行使することを根拠付ける。属人主義は、国籍を権原とし、国外にいる自国民に対して国内法を適用する根拠となる。
その他には、保護主義と普遍主義がある。保護主義とは、国家の利益が直接損なわれた場合、外国で行われた外国人の行為に対して立法管轄権を行使できるという原則である。具体的には、通貨偽造罪や内乱罪に適用される。普遍主義は、国際社会の一般利益の擁護のために全ての国家が管轄権を行使できるという原則である。例えば、ハイジャックや海賊行為、人道に対する罪などの国際犯罪に妥当する。普遍主義は、他の権原が国家法益の保護のために行使されるのとは異なり、国際社会の一般利益によって裏付けられる。
4、管轄権の重複
例えば、ある国が属人主義に基づいて国家管轄権を行使したとする。そうすれば、国内法が他国領域に適用されることになり、必然的に管轄権の重複が起こる。この場合、管轄権の重複はいかに調整されるのだろうか。
国家管轄権の重複でまず着目すべきは、管轄権の行使が他国の内政干渉になってはいけないということである。特に最近の経済関連法分野については、立法管轄権が内政干渉に当たる場合もありうる。しかし、刑事法分野においては、それが内政干渉に当たる場合を想定するのは難しいだろう。刑事法の管轄権重複は、対象が自然人であるため、実際に管轄権が重複しても、結果的に法を執行できるのは所在国のみである。したがって、立法管轄権の重複がとりわけ問題になることはほとんどない。また、殺人などのような重大犯罪はそれを犯罪とする点で国際的一致がある。このような刑事法の特徴のために、実際に管轄権の重複が問題となることはほとんどない。
5、執行管轄権の重複
執行管轄権は、立法管轄権と比べて権力行使が直接的であるため、厳格に自国領土内に限定されるとされてきた。(ローチェス号事件) 執行管轄権は、被行使国の同意があるとき以外は、外国領域内で行使することを一切禁止されている。したがって、執行管轄権の場合は、どのような行為が執行管轄権の行使にあたるかという点が争点となる。
1、国家管轄権とは
国家管轄権とは、国家が国内法を定立し、執行する権限のことをいい、国家の統治権のなかで中心的な位置をしめる。管轄権のうち、法の定立の側面を立法管轄権といい、法の執行の側面を執行管轄権と呼ぶ。また、裁判所による具体的な法の適用の側面を裁判管轄権と呼ぶ。裁判管轄権や執行管轄権は、立法管轄権が行使される事項に対して行使されるという関係に立つ。
2、域外適用
国内において管轄権を行使することに対して、国際法上の問題が起こることはまずない。しかし、最近では国内法を外国人が外国で行った行為に対しても適用するような事例がある。例えば、米国所在のマイクロソフト社が日本の独禁法に違反する方法で販売を行ったとして、公正取引委員会が同社に対して警告を行った事例がある。また、チリの元国家元首であるピノチェトを、英国警察がスペインの要請に基づいて、殺人容疑で逮捕したピノチェト事件も同様の例と考えられる。このように、自国外で行われた行為に対して自国法を適用することを、国家管轄権の域外適用という。
近年、個人が国境を越えることが容易になったり、特に経済分野においては、国際的に活動する多国籍企業の活動が目立つ。こうした国際社会事情の変化にともなって、国家管轄権の域外適用の事例も増えている。ここで問題となるのは、複数国家の管轄権が重複するケースである。国家管轄権の域外適用は、領土外に及ぶために国家間紛争に発展する恐れもある。
3、立法管轄権の権原
管轄権を行使するためには、行使のための根拠(権原)を持つことが必要とされる。国家が刑事法分野において無条件に立法管轄権の権原とされるのは、属地主義、属人主義のふたつである。属地主義とは、領土を権原とするものであり、その領土内の人、もの、または起こった事項に対して行使することを根拠付ける。属人主義は、国籍を権原とし、国外にいる自国民に対して国内法を適用する根拠となる。
その他には、保護主義と普遍主義がある。保護主義とは、国家の利益が直接損なわれた場合、外国で行われた外国人の行為に対して立法管轄権を行使できるという原則である。具体的には、通貨偽造罪や内乱罪に適用される。普遍主義は、国際社会の一般利益の擁護のために全ての国家が管轄権を行使できるという原則である。例えば、ハイジャックや海賊行為、人道に対する罪などの国際犯罪に妥当する。普遍主義は、他の権原が国家法益の保護のために行使されるのとは異なり、国際社会の一般利益によって裏付けられる。
4、管轄権の重複
例えば、ある国が属人主義に基づいて国家管轄権を行使したとする。そうすれば、国内法が他国領域に適用されることになり、必然的に管轄権の重複が起こる。この場合、管轄権の重複はいかに調整されるのだろうか。
国家管轄権の重複でまず着目すべきは、管轄権の行使が他国の内政干渉になってはいけないということである。特に最近の経済関連法分野については、立法管轄権が内政干渉に当たる場合もありうる。しかし、刑事法分野においては、それが内政干渉に当たる場合を想定するのは難しいだろう。刑事法の管轄権重複は、対象が自然人であるため、実際に管轄権が重複しても、結果的に法を執行できるのは所在国のみである。したがって、立法管轄権の重複がとりわけ問題になることはほとんどない。また、殺人などのような重大犯罪はそれを犯罪とする点で国際的一致がある。このような刑事法の特徴のために、実際に管轄権の重複が問題となることはほとんどない。
5、執行管轄権の重複
執行管轄権は、立法管轄権と比べて権力行使が直接的であるため、厳格に自国領土内に限定されるとされてきた。(ローチェス号事件) 執行管轄権は、被行使国の同意があるとき以外は、外国領域内で行使することを一切禁止されている。したがって、執行管轄権の場合は、どのような行為が執行管轄権の行使にあたるかという点が争点となる。
国家承認、政府承認
キーワード: 国家承認、政府承認、国家の資格要件、創設的効果説、宣言的効果説、非承認主義、南ローデシア事件、北部キプロス、尚早の承認
1、国家承認
国家承認とは、既存の国家が新国家を国家として承認することをいう。国際社会には国家を国家として承認する機関が存在しないため、国家承認は各国が個別に行うことになる。国家承認の目的は、新国家の地位の確認と、その国家との外交関係樹立の意思表明が挙げられる。
2、国家の資格要件
国家が国家として認められるには、幾つかの要件を満たさねばならない。その要件は、①永久的住民 ②明確な領土 ③政府
である。永久的住民である国民の要件は各国が決定するものである。明確な領土は、全ての国境線が確定されることまでは必要としない。実行的な政府があるということは、体内的には領域を排他的に支配し、対外的にはいずれの国家にも従属するものではないということを意味する。
3、創設的効果と宣言的効果
国家承認を国家の成立要件とするかどうかという問題がある。この点、必要とするのが創設的効果説であり、必要としないのが宣言的効果説である。この二つの説を簡単に整理してみたい。
そもそも創設的効果説は、国家間の合意によって法的関係の樹立をはかるということを目的とする。すなわち、国家を国家として認めてはじめて国家間の法関係がうまれるのであり、国家と承認していない国との間にはそれは生じない。この説は主に19世紀以降に用いられた考え方であり、当時の国家が、国際社会の仲間入りを果たす要件の一つが、他国による国家承認を受けるということであったと解することが出来る。
しかし、第二次大戦後、新たに「自決権」が国際法の一般原則としてその地位を確立する。自決権の観点から見れば、第三国による承認なしでは国家として認められないことは、自決権に反することになる。この意味で創設的効果説は批判される。宣言的効果説では、国家は国家資格要件を満たした時点で国家として認められるのであり、それに対する承認はその確認にすぎないとする。
宣言的効果説にたって、国家承認の国家成立要件を否定したとしても、国家承認による政治的効果に目を向ける必要がある。すなわち、国家を承認することによって生じる政治的効果は、創造的効果を持つという点である。
国家の成立が特に問題となるのは、旧来の支配国から分離独立を果たし、それを旧国家が認めていない時だろう。このような時に、国家の成立要件を3要件をみたしている場合、例えば大国がその国家を承認したり、多数の国家が承認を行えば、その国家の正統性はたかまり、独立反対派に対する牽制にもなる。つまり、国家承認が結果的に実効的な政府の確立に寄与することになる。
ただし、このような国家承認の効果は、法的なものではなく、あくまで政治的な効果でしかないと点には注意が必要である。
4、集団的不承認について
国際連合や国際機関が、不承認を要請することがある。満州国に対する不承認、南ローデシアや北部キプロスの例がそれである。これらのケースは、違法行為によって国家の独立を宣言した点で共通している。国際法上の違法を理由にして、国家要件を満たした国に対して、国連が各国に不承認を要請しそれに各国が従う場合は、その国家は国家として認められないと解するのが適当であろう。つまり、逆の意味で創設的効果が働いていると言える。
5、政府承認
政府承認とは、旧政府が非合法的に転覆されて新しい政府が樹立された場合に、既存の国家が新政府を承認することをいう。政府承認に関しても国家承認と同様に、創設的効果説と宣言的効果説が主張され、争われてきた。
政府承認廃止政策
政府承認を行うと、新政府の政策を認めたものと解されることがある。例えば、イギリスはかつてポルポト政権のカンボジア政府を承認したが、それがポルポト政権の大量虐殺を認めたものと理解され非難を受けた。このことから、イギリス政府は政府承認を廃止した。しかし、問題は「政府承認廃止」は本当に政府承認を廃止したことになるかである。政府承認には、「明示の承認」と「黙認の承認」があり、承認廃止は単に明示の承認から黙示の承認に移行しただけと捉えられるのだ。黙示の承認は、政府承認の有無が外部から分かりにくくなるので、外交の透明性が落ちるという批判もある。
政府承認の効果
政府承認は国家の存在を前提とするため、その国家と法的関係を結ぶかどうかという問題は起きない。政府承認の本質は、どの政府と外交関係を結ぶかという判断であり、またどの政府を選択するかは自決権による人民の選択である。したがって、ここでも創設的効果説は不適当であろう。
ただし、国家承認と同じように、法的効果とは違う政治的効果が生じることがあり、新政府の承認が、その政府の正統性を強化することがある。この場合も、法的効果と政治的効果が異なることに注意が必要である。
以上
未承認国の法的地位に関して
承認の要件と尚早の承認に関して
政府承認の要件
エストラーダ主義
国際法と国内法の関係
キーワード: 二元論、国内法優位の一元論、国際法優位の一元論、等位理論、条約法条約、自動執行性
1、国際法と国内法の関係
国際法と国内法の関係を表す諸学説を紹介。
①二元論
国際法秩序と国内法秩序は異なるものと捉える考え。その根拠に、(A)法秩序の根拠の違いと(B)規律対称の違いをあげる。
(A)に関しては国際法は複数国の合意、または協力をその根拠にするが、国内法は一方的な国家の意思表示であること。
(B)に関しては国際法は国家間関係を規律するのに対し、国内法は私人相互、または国家と私人の関係を規律する。
②国内法優位の一元論、国際法優位の一元論
国際法と国内法は、いずれかが上位にあり、他方がそれに従属する形で存在するという考え・
③等位理論
国際法秩序においては国際法が最高であり、各国の国内法秩序においては国内法が最高とする考え。
国際法と国内法が矛盾抵触する場面において、両者を調整するという義務が国家に課されているとする。
2、国際法秩序における国内法の位地
条約に関するウィーン条約(条約法条約)27条には「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することができない。」と定められている。つまり、矛盾する国内法を理由に、国際法上の義務を履行しないことは認められない。
しかし、国内法は国際社会において、完全に無視されているわけではない。例えば、一方的国内措置呼ばれるような行為が、他国に対して対抗力をもち、その結果一般国際法に発展するケースもある。(ノルウェエーの直線基線、トゥルーマン宣言)
また、法の欠缼に対して用いられる法の一般原則は、各国の国内法における共通原則から導出されるものである。
このように、国際法秩序においても国内法の効力は完全に消えるわけではない。国際法は国際法秩序の最高位にあるものであり、国内法が効力を持つか否か、また持つとすればどの程度かということを決定するのは国際法なのである。
3、国内法秩序における国際法の位地
国内法上、国際法をどのように適用するかは各国の裁量である。したがって、どのような形で国際法が国内で適応されるのかを決めるのは各国の国内法であり、この点で国際法は国内法に規律されるといえる。その受容方法は、主に二種類ある。条約などの国際法を直接は国内に適用せず、国内に適用できるような形で新たに立法する変形型と、条約をそのまま受け入れて国内で適用する受容方である。このうち、日本は後者を使用している。
ただし、最近ではWTO諸協定のように、従来は国内法によって規律していた領域まで国際法適用が拡大されているものもある。
4、等位理論の妥当性
以上のように、国際法秩序における国内法の位地と国内法秩序における国際法の位地をみれば、等位理論の妥当性がうかがえる。つまり、国際社会においての最高の法は国際法であり、国内法は国際法の許す範囲で効力を持つ。逆に、国内における最高の法は国内法であり、国際法の適用は国内法の規律をうけるのである。このように、両者は互いの領域における最高の法として存在するが、そうすると自ずから両者が矛盾抵触を引き起こす場面が出てくるであろう。等位理論は、両者の矛盾抵触を調整する義務が国家に課されると説く。この点で、等位理論は国際法と国内法の現実的な関係を説明していると考えられる。
5、国際法の国内における適用方法
以上のことを踏まえた上で、日本国内ではどのように国際法を国内で適用させてきたかを考えてみたい。先に述べたが、国際法を国内で適用するやり方は、各国裁量であり、日本はその中でも条約をそのまま適用する受容型の国である。その根拠は、憲法98条2項と国際協調主義が挙げられる。
自動執行性の問題
受容型のように、国際法がそのまま国内で適用されるとしても、全ての国際法が国内において実施されるわけではない。なぜなら、国際法の多くは国家間関係を規律するものであり、直接個人の権利義務を規律するものは少ないからである。ここで、どのような国際法が国内において直接効力を持つかが問題となる。国際法がそのまま直接国内で効力を持つことを自動執行性と呼ぶが、その要件は次の二点である。第一が、条約が当事国に国内的に直接適用することを義務づけているかどうかである。第二点が、国内法上適用すべき基準をみたしているかである。日本の場合、第二点目に関しては、条項の「明確性」と「完全性」を挙げる。条約の執行に必要な手続きが定められていなければならないという条約の完全性と、私人の予測可能性確保という法の安定性の原則から、条約の規定の明確性が求められる。
この点は、シベリア抑留者補償事件、ヘーグ陸戦条約に基づいて日本政府に損害賠償を請求したオランダ元捕虜損害賠償事件で明らかにされている。
以上。
1、国際法と国内法の関係
国際法と国内法の関係を表す諸学説を紹介。
①二元論
国際法秩序と国内法秩序は異なるものと捉える考え。その根拠に、(A)法秩序の根拠の違いと(B)規律対称の違いをあげる。
(A)に関しては国際法は複数国の合意、または協力をその根拠にするが、国内法は一方的な国家の意思表示であること。
(B)に関しては国際法は国家間関係を規律するのに対し、国内法は私人相互、または国家と私人の関係を規律する。
②国内法優位の一元論、国際法優位の一元論
国際法と国内法は、いずれかが上位にあり、他方がそれに従属する形で存在するという考え・
③等位理論
国際法秩序においては国際法が最高であり、各国の国内法秩序においては国内法が最高とする考え。
国際法と国内法が矛盾抵触する場面において、両者を調整するという義務が国家に課されているとする。
2、国際法秩序における国内法の位地
条約に関するウィーン条約(条約法条約)27条には「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することができない。」と定められている。つまり、矛盾する国内法を理由に、国際法上の義務を履行しないことは認められない。
しかし、国内法は国際社会において、完全に無視されているわけではない。例えば、一方的国内措置呼ばれるような行為が、他国に対して対抗力をもち、その結果一般国際法に発展するケースもある。(ノルウェエーの直線基線、トゥルーマン宣言)
また、法の欠缼に対して用いられる法の一般原則は、各国の国内法における共通原則から導出されるものである。
このように、国際法秩序においても国内法の効力は完全に消えるわけではない。国際法は国際法秩序の最高位にあるものであり、国内法が効力を持つか否か、また持つとすればどの程度かということを決定するのは国際法なのである。
3、国内法秩序における国際法の位地
国内法上、国際法をどのように適用するかは各国の裁量である。したがって、どのような形で国際法が国内で適応されるのかを決めるのは各国の国内法であり、この点で国際法は国内法に規律されるといえる。その受容方法は、主に二種類ある。条約などの国際法を直接は国内に適用せず、国内に適用できるような形で新たに立法する変形型と、条約をそのまま受け入れて国内で適用する受容方である。このうち、日本は後者を使用している。
ただし、最近ではWTO諸協定のように、従来は国内法によって規律していた領域まで国際法適用が拡大されているものもある。
4、等位理論の妥当性
以上のように、国際法秩序における国内法の位地と国内法秩序における国際法の位地をみれば、等位理論の妥当性がうかがえる。つまり、国際社会においての最高の法は国際法であり、国内法は国際法の許す範囲で効力を持つ。逆に、国内における最高の法は国内法であり、国際法の適用は国内法の規律をうけるのである。このように、両者は互いの領域における最高の法として存在するが、そうすると自ずから両者が矛盾抵触を引き起こす場面が出てくるであろう。等位理論は、両者の矛盾抵触を調整する義務が国家に課されると説く。この点で、等位理論は国際法と国内法の現実的な関係を説明していると考えられる。
5、国際法の国内における適用方法
以上のことを踏まえた上で、日本国内ではどのように国際法を国内で適用させてきたかを考えてみたい。先に述べたが、国際法を国内で適用するやり方は、各国裁量であり、日本はその中でも条約をそのまま適用する受容型の国である。その根拠は、憲法98条2項と国際協調主義が挙げられる。
自動執行性の問題
受容型のように、国際法がそのまま国内で適用されるとしても、全ての国際法が国内において実施されるわけではない。なぜなら、国際法の多くは国家間関係を規律するものであり、直接個人の権利義務を規律するものは少ないからである。ここで、どのような国際法が国内において直接効力を持つかが問題となる。国際法がそのまま直接国内で効力を持つことを自動執行性と呼ぶが、その要件は次の二点である。第一が、条約が当事国に国内的に直接適用することを義務づけているかどうかである。第二点が、国内法上適用すべき基準をみたしているかである。日本の場合、第二点目に関しては、条項の「明確性」と「完全性」を挙げる。条約の執行に必要な手続きが定められていなければならないという条約の完全性と、私人の予測可能性確保という法の安定性の原則から、条約の規定の明確性が求められる。
この点は、シベリア抑留者補償事件、ヘーグ陸戦条約に基づいて日本政府に損害賠償を請求したオランダ元捕虜損害賠償事件で明らかにされている。
以上。
君が代伴奏命令の違憲・合憲
君が代伴奏命令は合憲、教諭の上告棄却…最高裁初判断
東京都日野市の市立小学校の入学式で、「君が代」のピアノ伴奏を命じた校長の職務命令を拒否したことを理由に懲戒処分を受けた音楽科の女性教諭(53)が、都教育委員会を相手取り、処分の取り消しを求めた訴訟の上告審判決です。
この裁判の論点、まとめてみます。
憲法上問題となってくるのは、主に次の二点
1、君が代の伴奏を強制することが憲法19条で保障されている思想良心の自由の侵害となるかどうか。
2、憲法15条に規定されている、公務員の受ける人権制限(特別権力関係)
①思想・良心の自由(19条)について
思想・良心の自由とは、人の内面領域における自由の保障である。この権利は、内在的制約を受けない絶対的保障を受けるとされている。なぜなら、思想・良心は内面に留まる限り、他人に害を与えることはないからである。(内面を外に出す行為の自由は、21条の表現の自由)したがって、社会にとって有害な思想であっても、内面に留まる限りどんな制約も受けない。
もうひとつ、思想・良心の自由の領域として、沈黙の自由があげられる。これは、内面に持つ思想の表明を、強制されない自由である。この沈黙の自由が保障されていなければ、思想の自由は保障されないことになる。
ここで問題となってくるのが、「思想、良心」の範囲である。一体どこまでが思想良心の範疇であり、19条によって保障されるのか。
この点に関しては、二つの考え方がある。
1つは、全ての内面作用は思想良心の範疇であるという捉え方である。
もう一つは、世界観、人生観、思想、政治的意見など、人格形成に関わる必要不可欠なものだけが保障されるという考え方である。この考え方では、知識や事実関係の知、不知など人格形成に関わらない内心活動は保障されないことになる。
この二つの考え方の根底には、そもそも人権をどのように捉えるかという考えに関係してくる。すなわち、およそ全ての人間の活動を人権として保証するか、それとも人格形成に必要不可欠な活動に関しては人権として保障するかという、13条の包括基本権の範囲の問題と関連してくるのだ。この点、「新しい人権」の根拠となる13条が、全ての活動を保証すると解せば、あらゆるものが人権として保障されることになり、人権のインフレを引き起こす恐れがある。したがって、人権として保障されるものは、人格形成に必要不可欠なものに限るべきであり、そう考えるならば、19条で保障される思想・良心も狭い範囲で認められるものと解すべきであろう。
つまり、思想良心の自由で保障される内面活動とは、人格形成に関わる必要不可欠な内面活動だけと言える。
具体例:謝罪広告事件、ポストノーティス命令
陳謝の意を表明させることが良心の自由の侵害となるかが問題となった事件。判例では陳謝の意を表明することは、単に事実を表明したにすぎないから、これは19条に違反しないとした。つまり、陳謝の意の表明は、19条で保障されている思想・良心の侵害にはならないということである。(思想良心を全ての内面行為と捉えれば、これは19条に違反することになる。)そして、陳謝の意の表明に留まる程度の謝罪広告の掲載は過度に苦痛を与えるものではないとして、これを合憲とした。(過度に苦痛を与えると13条違反となる)
②公務員の人権
憲法15条2項には「すべての公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と明記されている。公務員は公務に携わるために、一部の利益のためではなく、全体の利益のために行動しなければならないという、一般人とは違った特別な権力関係の中に存在し、その目的のために一定の人権制約を受けることとなる。ただし、全体の奉仕者という概念はあくまで抽象的なものであり、それ自体が人権制約の根拠となるわけではないので、公務員の職務上の地位やその職質、職務内容を個別的に検討し、その行為によってもたらされる弊害除去のために必要最低限度の制約が許されると考えられる。
具体例:猿払事件
公務員が選挙ポスターをはって処罰された事件。特に行政分野においては、公務員の政治的中立性が維持されねばならず、それが国民全体の重要な利益につながる。したがって、公務員の政治的中立性を損なう恐れのある政治行為の禁止は、それが合理的で必要やむをえない限度に留まる限り、憲法の許容する範囲であるとする判例がある。
以上の二点が、主な論点であると考えられる。
以上を踏まえて、今回の判決をどう評価すべきか。
まず第一の争点である、憲法19条の思想良心の自由に関連して、最高裁は「ピアノ伴奏を拒否する教諭の考えを、「歴史観や世界観、社会生活上の信念」と位置づけた上で、職務命令で伴奏を命じても、この考えを否定することにはならないと指摘」している。すなわち君が代のピアノ伴奏の職務命令は、19条に違反しないとする趣旨である。この点、昨年9月の東京地裁で同種の事件を扱ったも判決で、「日の丸、君が代が、国民の間で宗教的、政治的に価値中立なものと認められるにいたっていない現状では、国旗、国歌の強制は思想・良心の自由を侵害する」という趣旨のものがある。すなわち、日常的な生活において一般人が君が代や日の丸に対して抱く価値は、それが政治思想を反映するものであるというものであり、それゆえ、その強制は19条に違反するということである。ピアノ伴奏とはいえ、君が代が特定の社会的信念を表すものであると解される以上、その強制は19条違反であると考えるのが妥当であり、したがって、この点で最高裁の判断には疑問が残る。
しかし、以上の見解はあくまで一般国民に対する人権の考えであって、本件で問題となるのは、原告が公務員という特殊な権力関係によってその人権をある程度制限されるということである。
判決は、「公務員は全体の奉仕者」と規定した憲法15条や地方公務員法を踏まえ、教諭には上司の職務命令に従う義務があるとし、ピアノ伴奏による国歌斉唱は学習指導要領の規定にもかなうことから、「職務命令は不合理とは言えない」とした。原告は公務員であり、職務につくにあたって受ける制約に対する合意を示しているはずである。また、音楽教師として式典における君が代の伴奏は最初から想定されていることであり、このことに関する職務命令は「重大かつ明白な瑕疵のある命令」であるとはいえない。したがって職務命令は不合理なものではなく、その命令に違反した教諭の懲戒処分は妥当であると考えられる。
本件で重要なことは、確かに君が代の伴奏を強制することは思想・良心の自由の侵害にあたるといえるが、それはあくまで一般国民に対してであるということである。そして公務員という特別権力関係を考慮すれば、教諭に対する命令は合理的範疇のものであり、その命令に違反したという点で教諭の主張は退けられることになる。したがって、本判決は妥当であるといえる。
ただし、最近では日の丸や君が代をめぐる訴訟は増えており、それらの訴訟に対する遡及効果を考慮するならば、日の丸や君が代をめぐる19条の問題に関しては、さらに深い議論の余地があったのではないだろうか。そもそも、公務員に対する人権の制約も、それは必要最低限度のものでなくてはならず、君が代の伴奏を例えばテープで流すなど別の方法もとり得たはずである。日の丸、君が代と19条をめぐる問題は、なお議論の必要があるだろう。
以上
26日:国際裁判
1.国際裁判の特徴
①強制執行手続きの不在
②紛争処理機関の多元化→同一事項に対して異なる判決が出る可能性。根拠となる条約によって、扱う問題も変わる。
→ 真の紛争
③当事者の付託合意が必要 → 国際紛争を裁判によって解決しなければならないという義務はない。
→管轄権の問題
2.訴訟要件
①管轄権 → 国内裁判とは異なり、裁判所に管轄権を認める同意が必要。→ 本来は強制的に管轄権を行使するのが好ましいが、そうは行かない。→ 事前同意の確保を目指す。
(1)特定条約に関する紛争の場合、あらかじめ条約内で国家が委託合意を行っておく方式。条約方条約など、多くの二国間、多国間条約で採られる方式。
(2)選択条項受諾宣言。国家があらかじめ、一方的に管轄権を認める範囲を宣言しておく。同様の宣言を行った国家の間で、管轄権の範囲が重なっている場合のみ、裁判所による管轄権が認められる。
(3)条約によって、全ての範囲において裁判所に管轄権を認める方式。ジュネーブ議定書。
(2)に関して
時間的留保
事項的留保
紛争 → 具体的な紛争。 当事国間で利益侵害がはっせいするような、事実問題、条約解釈の不一致
→ 真の紛争 (ミナミマグロ事件)
②受理可能性
裁判所に提起された事案を裁判所が判断することが適切かどうかという問題。
EX: ①国内救済原則→容易に国際的紛争に発展することを防ぐため、一次的な紛争の解決は加害国の国内救済手段が望ましい→受理可能性の問題
②請求目的の消滅 核実験事件
③当事者的確の欠如 バルセロナ・トラクション会社事件
法律的紛争と政治的紛争
①規定や付託合意をどのように解釈するかという問題→ 管轄権
②司法機能の解釈の問題 → 受理可能性
ニカラグア事件
ニカラグアが提訴した問題は司法機能になじまないものというアメリカの抗弁→裁判所は、一つの国際紛争に関して、政治的紛争も法律的紛争も成立する可能性 → 政治紛争を処理する安保理に対して、裁判所は補完的責任を果たしうる。→ 受理可能
判決の強制的執行機能の欠如 → 国家間の紛争の処理に向けての一定の役割をはたすかどうか。
→ 当事国間の交渉の延長、促進を促す効果。
①強制執行手続きの不在
②紛争処理機関の多元化→同一事項に対して異なる判決が出る可能性。根拠となる条約によって、扱う問題も変わる。
→ 真の紛争
③当事者の付託合意が必要 → 国際紛争を裁判によって解決しなければならないという義務はない。
→管轄権の問題
2.訴訟要件
①管轄権 → 国内裁判とは異なり、裁判所に管轄権を認める同意が必要。→ 本来は強制的に管轄権を行使するのが好ましいが、そうは行かない。→ 事前同意の確保を目指す。
(1)特定条約に関する紛争の場合、あらかじめ条約内で国家が委託合意を行っておく方式。条約方条約など、多くの二国間、多国間条約で採られる方式。
(2)選択条項受諾宣言。国家があらかじめ、一方的に管轄権を認める範囲を宣言しておく。同様の宣言を行った国家の間で、管轄権の範囲が重なっている場合のみ、裁判所による管轄権が認められる。
(3)条約によって、全ての範囲において裁判所に管轄権を認める方式。ジュネーブ議定書。
(2)に関して
時間的留保
事項的留保
紛争 → 具体的な紛争。 当事国間で利益侵害がはっせいするような、事実問題、条約解釈の不一致
→ 真の紛争 (ミナミマグロ事件)
②受理可能性
裁判所に提起された事案を裁判所が判断することが適切かどうかという問題。
EX: ①国内救済原則→容易に国際的紛争に発展することを防ぐため、一次的な紛争の解決は加害国の国内救済手段が望ましい→受理可能性の問題
②請求目的の消滅 核実験事件
③当事者的確の欠如 バルセロナ・トラクション会社事件
法律的紛争と政治的紛争
①規定や付託合意をどのように解釈するかという問題→ 管轄権
②司法機能の解釈の問題 → 受理可能性
ニカラグア事件
ニカラグアが提訴した問題は司法機能になじまないものというアメリカの抗弁→裁判所は、一つの国際紛争に関して、政治的紛争も法律的紛争も成立する可能性 → 政治紛争を処理する安保理に対して、裁判所は補完的責任を果たしうる。→ 受理可能
判決の強制的執行機能の欠如 → 国家間の紛争の処理に向けての一定の役割をはたすかどうか。
→ 当事国間の交渉の延長、促進を促す効果。
クラスター爆弾禁止条約とNGOの役割
クラスター爆弾禁止へ条約 日本など宣言に加わらず
国連などが非人道的だと批判しているクラスター爆弾をめぐり、ノルウェーが呼びかけた国際会議は23日、08年末までに使用、製造、移動、備蓄を禁止する条約の締結を目指す「オスロ宣言」を採択し、閉幕した。49カ国と国連機関、NGO(非政府組織)が参加。このうち日本とポーランド、ルーマニアの3カ国だけが宣言に加わらない意向を表明した。今後、条文の整備などを急ぐ。
97年の対人地雷禁止条約に至った「オタワ・プロセス」と同様、意欲のある国々が国連外で軍縮を進める。宣言自体に拘束力はないが、地雷のように軍事大国も意識せざるを得ない枠組みに発展するかが注目される。
会議参加国は最終日にコロンビアが加わり、49カ国となった。米国、ロシア、中国は会議に参加していない。日本代表の平野隆一・外務省通常兵器室長は「議論の進め方、方向性について立場を決める状況にない。今回は主に人道的な観点だったが、安全保障上の問題について議論することも必要だ」と話した。 (朝日新聞)
主要な非政府組織(NGO)は宣言案に賛成する意向を示しているほか、複数の参加国も前向きな模様で、採択の可能性が高い。宣言案に合意すれば、国連の枠外でカナダ政府や市民団体が主導、99年に発効した「対人地雷禁止条約」(オタワ条約)以来、二つ目の市民主導の条約ができる可能性がある。(毎日新聞)
__________________________________
このように非人道的な兵器を減らす動きが国際社会で起こっていることはものすごく歓迎すべきことだと思うが、それにしても、何故日本がこういった動きに積極的に参加しないのかということには少し疑問が残ります。確かに安全保障やその他諸々の事情があるのだろうけど、しかし、日本は平和憲法を掲げ、その憲法前文において「この崇高な理想と目的を達成することを誓う」と宣言しており、その理念を世界中に示し、また広めていく義務があるのではないか。確かに安全保障なども大切だが、日本国の理念を実行し、それをワールドスタンダードまで持っていかなきゃ、ほんと日本はおいていかれるように思えます。例えば、最近の環境保護に関する動きでも、EUに主導権を握られそうな気配がしてなりません。こういうところで主導権握らなきゃ、一体どこで戦うんだ日本!?!? CTBTを批准しないアメリカや中国に対しても、唯一の被爆国として「こらぁてめーらとっとと批准せんかい!!!」くらい言ってもいいんじゃないか、って、言えるわけないか。(笑)
ところで、このクラスター爆弾禁止条約への動きは、「オタワ・プロセス」と呼ばれる、97年の対人地雷禁止条約(オタワ条約)締結でカナダなどが使ったやり方を参考にしている。大国の同意を前提とせず、まず意欲のある国々で条約締結に向けた作業を国連の枠外で進め、その後に他国に参加を促していく方式である。また、NGOや市民社会の後押しを受けているのも特徴。
ただ、この方式では、地雷やクラスター爆弾などの武器を生産、保有する軍事大国が条約に参加しなければ意味がないという限界もある。ちなみに、地雷を大量保留しているアメリカ、中国、ロシアは今もオタワ条約を批准しておらず、この3国は今回のオスロ会議にも参加していないのである。
いまだ対人地雷禁止条約を大国が批准していないと言えども、結果的にそれを軍事大国が無視できない枠組みにまで発展させたことには意義がある。また、そのプロセスにおいては、NGOなどの市民団体の存在は無視できないであろう。
そこで、今回は条約作成プロセスにおけるNGOの役割について考えてみたい。
『条約作成プロセスとNGOの役割』
①民主的コントロール
条約締結プロセスにおいてNGOの役割が注目されている理由の一つに、条約締結に対する民主的コントロールがあげられる。
条約締結手続きに対する、民主的統制は、従来各国の議会の関与という形で行われてきた。例えば、条約に拘束されることへの合意の表明となる批准を国内の議会が行うことや、条約に拘束されることへの合意を表明する前に議会の承認を要求するなどの手続きである。日本でも、憲法73条に条約締結する際は、その事前、または事後に国会の承認を受けなければならないと明記されている。すなわち、国民によって選ばれた議会が、条約締結手続きに関わることでその民意を反映してきたわけである。
ところが近年、WTO諸協定に代表されるように、国家の枠組みを突き破り、直接的に市民を拘束するような効力をもつ条約が増えてきている。こららの条約の特徴として、第一に、条約に参加しないことが自国にとって不利に働くことから、条約への参加が事実上強制であるということがあげられる。第二に、従来の条約は結果の実現義務が決められただけで、その達成方法は各国の裁量で決められていたのだが、WTO諸協定においてはその実施方法までもが義務化されているという点である。第三に、これらの条約の解釈適用は最終的にWTO紛争解決手続きで決定されるという点である。したがって、各国がそれぞれに条約を解釈する権利を喪失したと言える。
このような特徴をもつWTO諸協定のような条約は、その締結手続きにおける民主的統制の不備によって、条約が途上国や弱者に不利益をもたらす危険性がある。なぜなら、これらの条約は一度締結したらそのないように拘束されることになり、なおかつ条約の解釈、実施において、国家の裁量が狭められるために、条約締結後に議会による統制では、対応しきれないからだ。したがって、条約作成段階において、民主統制を実現する必要があるのだ。
条約作成段階でいかに民主的コントロールをおよぼすかという問題に対する解決策のひとつとして、NGOの関与があげられる。
その役割は2つあげられる。一つは条約締結手続きの透明性の確保、もう一つは複数の選択肢の提供である。
まず一つ目の役割であるが、条約や国内法が、ますます高度に専門化し条約の内容を理解するには、専門家による分析が必要となる。そこで、NGOが専門家集団として条約内容を分析し、結果を公表することによって、一般市民のより深い理解の一助となることが期待される。特に、加入が事実上強制的であるために、条約締結段階ではなく、条約の作成段階からNGOが関与することが求められる。そして、交渉されている条約の内容の透明性が確保されるのだ。
二つ目の役割は、真の民主主義は選択可能性があって初めてなりたつという考えに立脚している。すなわち、いくら民主主義国家であっても、選択可能な政党が1党しかなければ、それは民主主義とは呼べない。つまり、複数の選択肢が提示され、その中から選ぶことによって民主的正当性が確保されるわけである。そこで、条約締結手続きにおいても、条約に対する代替案が提示され、それを踏まえた説明を各国政治当局が行うことによって、民主的コントロールを実施していく。NGOが代替案を提示することで、この民主的統制の維持をはかるのである。
以上のように、NGOは条約締結手続きにおける民主的統制の担い手として、評価されている。
あぁ、疲れた。終わり。続きはまた今度。
国連などが非人道的だと批判しているクラスター爆弾をめぐり、ノルウェーが呼びかけた国際会議は23日、08年末までに使用、製造、移動、備蓄を禁止する条約の締結を目指す「オスロ宣言」を採択し、閉幕した。49カ国と国連機関、NGO(非政府組織)が参加。このうち日本とポーランド、ルーマニアの3カ国だけが宣言に加わらない意向を表明した。今後、条文の整備などを急ぐ。
97年の対人地雷禁止条約に至った「オタワ・プロセス」と同様、意欲のある国々が国連外で軍縮を進める。宣言自体に拘束力はないが、地雷のように軍事大国も意識せざるを得ない枠組みに発展するかが注目される。
会議参加国は最終日にコロンビアが加わり、49カ国となった。米国、ロシア、中国は会議に参加していない。日本代表の平野隆一・外務省通常兵器室長は「議論の進め方、方向性について立場を決める状況にない。今回は主に人道的な観点だったが、安全保障上の問題について議論することも必要だ」と話した。 (朝日新聞)
主要な非政府組織(NGO)は宣言案に賛成する意向を示しているほか、複数の参加国も前向きな模様で、採択の可能性が高い。宣言案に合意すれば、国連の枠外でカナダ政府や市民団体が主導、99年に発効した「対人地雷禁止条約」(オタワ条約)以来、二つ目の市民主導の条約ができる可能性がある。(毎日新聞)
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このように非人道的な兵器を減らす動きが国際社会で起こっていることはものすごく歓迎すべきことだと思うが、それにしても、何故日本がこういった動きに積極的に参加しないのかということには少し疑問が残ります。確かに安全保障やその他諸々の事情があるのだろうけど、しかし、日本は平和憲法を掲げ、その憲法前文において「この崇高な理想と目的を達成することを誓う」と宣言しており、その理念を世界中に示し、また広めていく義務があるのではないか。確かに安全保障なども大切だが、日本国の理念を実行し、それをワールドスタンダードまで持っていかなきゃ、ほんと日本はおいていかれるように思えます。例えば、最近の環境保護に関する動きでも、EUに主導権を握られそうな気配がしてなりません。こういうところで主導権握らなきゃ、一体どこで戦うんだ日本!?!? CTBTを批准しないアメリカや中国に対しても、唯一の被爆国として「こらぁてめーらとっとと批准せんかい!!!」くらい言ってもいいんじゃないか、って、言えるわけないか。(笑)
ところで、このクラスター爆弾禁止条約への動きは、「オタワ・プロセス」と呼ばれる、97年の対人地雷禁止条約(オタワ条約)締結でカナダなどが使ったやり方を参考にしている。大国の同意を前提とせず、まず意欲のある国々で条約締結に向けた作業を国連の枠外で進め、その後に他国に参加を促していく方式である。また、NGOや市民社会の後押しを受けているのも特徴。
ただ、この方式では、地雷やクラスター爆弾などの武器を生産、保有する軍事大国が条約に参加しなければ意味がないという限界もある。ちなみに、地雷を大量保留しているアメリカ、中国、ロシアは今もオタワ条約を批准しておらず、この3国は今回のオスロ会議にも参加していないのである。
いまだ対人地雷禁止条約を大国が批准していないと言えども、結果的にそれを軍事大国が無視できない枠組みにまで発展させたことには意義がある。また、そのプロセスにおいては、NGOなどの市民団体の存在は無視できないであろう。
そこで、今回は条約作成プロセスにおけるNGOの役割について考えてみたい。
『条約作成プロセスとNGOの役割』
①民主的コントロール
条約締結プロセスにおいてNGOの役割が注目されている理由の一つに、条約締結に対する民主的コントロールがあげられる。
条約締結手続きに対する、民主的統制は、従来各国の議会の関与という形で行われてきた。例えば、条約に拘束されることへの合意の表明となる批准を国内の議会が行うことや、条約に拘束されることへの合意を表明する前に議会の承認を要求するなどの手続きである。日本でも、憲法73条に条約締結する際は、その事前、または事後に国会の承認を受けなければならないと明記されている。すなわち、国民によって選ばれた議会が、条約締結手続きに関わることでその民意を反映してきたわけである。
ところが近年、WTO諸協定に代表されるように、国家の枠組みを突き破り、直接的に市民を拘束するような効力をもつ条約が増えてきている。こららの条約の特徴として、第一に、条約に参加しないことが自国にとって不利に働くことから、条約への参加が事実上強制であるということがあげられる。第二に、従来の条約は結果の実現義務が決められただけで、その達成方法は各国の裁量で決められていたのだが、WTO諸協定においてはその実施方法までもが義務化されているという点である。第三に、これらの条約の解釈適用は最終的にWTO紛争解決手続きで決定されるという点である。したがって、各国がそれぞれに条約を解釈する権利を喪失したと言える。
このような特徴をもつWTO諸協定のような条約は、その締結手続きにおける民主的統制の不備によって、条約が途上国や弱者に不利益をもたらす危険性がある。なぜなら、これらの条約は一度締結したらそのないように拘束されることになり、なおかつ条約の解釈、実施において、国家の裁量が狭められるために、条約締結後に議会による統制では、対応しきれないからだ。したがって、条約作成段階において、民主統制を実現する必要があるのだ。
条約作成段階でいかに民主的コントロールをおよぼすかという問題に対する解決策のひとつとして、NGOの関与があげられる。
その役割は2つあげられる。一つは条約締結手続きの透明性の確保、もう一つは複数の選択肢の提供である。
まず一つ目の役割であるが、条約や国内法が、ますます高度に専門化し条約の内容を理解するには、専門家による分析が必要となる。そこで、NGOが専門家集団として条約内容を分析し、結果を公表することによって、一般市民のより深い理解の一助となることが期待される。特に、加入が事実上強制的であるために、条約締結段階ではなく、条約の作成段階からNGOが関与することが求められる。そして、交渉されている条約の内容の透明性が確保されるのだ。
二つ目の役割は、真の民主主義は選択可能性があって初めてなりたつという考えに立脚している。すなわち、いくら民主主義国家であっても、選択可能な政党が1党しかなければ、それは民主主義とは呼べない。つまり、複数の選択肢が提示され、その中から選ぶことによって民主的正当性が確保されるわけである。そこで、条約締結手続きにおいても、条約に対する代替案が提示され、それを踏まえた説明を各国政治当局が行うことによって、民主的コントロールを実施していく。NGOが代替案を提示することで、この民主的統制の維持をはかるのである。
以上のように、NGOは条約締結手続きにおける民主的統制の担い手として、評価されている。
あぁ、疲れた。終わり。続きはまた今度。
死刑制度に関して。
フランスが、死刑を禁止する条項を憲法にのせたらしい。
ということで、本日は日本の死刑制度と憲法上の論点についてかいてみよう。
欧州では、死刑廃止を人権外交の軸にしていて、最近では、日本のような民主主義大国で死刑制度が依然として残っているような国に対する風当たりは強くなっている。まぁ、アメリカや中国にも、いまだに死刑制度はあるみたいだけど、人権の尊重を一般的利益とする国際社会の流れに逆らってるんじゃないかという批判や、実際死刑制度っていうのは対テロ協力を阻害する一因とも言われているようです。まぁそのことに関しては後々。
そこで、死刑制度っていうのは日本の憲法上、どういった風に捉えられているのかというのを、適当にかいてみようと思います。
死刑とは、国家が犯罪者の命を奪うことで完成する刑罰であり、いわば国家による殺人を正当化する制度と言える。このことに対して、憲法はどういう立場をとっているのか。
まず、幸福追求権といわれる憲法13条であるが、「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利」が最大限尊重されなければならないとしつつも、それは「公共の福祉」の制限を受けるとしている。また、31条は、「法律の定める手続きによらなければ、生命若しくは自由を奪われ、またはその他の刑罰を科せられない」としている。つまり、人の生命は最大限尊重されなければならないものだが、それには公共の福祉による一定の制限を受け、かつ、法律の定める手続きによれば、命を奪う刑罰を科すことができるというふうに解釈できる。
ただ、これらの規定は、単に場合によっては生命を奪うことが出来るという可能性を示すに過ぎず、決して奪わなければならないという積極的な解釈は引き出せない。また、13条のいう公共の福祉の内在的制約が、人命を奪う行為にまで及ぶとは考えにくい。
以上のように、13条、31条が共に積極的に死刑を容認するわけでもなく、否定するわけでもないとすれば、死刑が36条の禁止する「残虐な刑罰」にあたるかどうかが問題となる。
残虐な刑罰とは、不必要な精神的、肉体的苦痛を伴う人道に反する刑罰のことをいうらしい。このことから、直接死刑が残虐な刑罰かどうかを判断するのは難しい。それに、刑罰とはもともと、本人の意思とは関係なく、自由を束縛したりして苦痛を与えるのが目的であるはずだから、それが必要な苦痛かどうかを判断するのは難しいことだ。
また、最高裁は死刑の合憲性について、死刑の威嚇力と、その執行による犯罪の予防、根絶を理由に挙げているが、実際死刑制度のある国の犯罪率が必ずしも低いと言うような実証データはなく、その関連性は疑わしいと言える。
以上のことから、死刑が不必要な苦痛を伴う残虐な刑罰であることを立証するような証拠もなく、逆にそれが必要であるという証拠も存在しない。したがって、死刑制度は違憲ではないが、廃止しても別段問題はないというような結論しか導き出せないことになる。
だたし、死刑自体は違憲ではないとしても、その執行方法が残虐であれば違憲ということが言える。日本の刑法では、死刑は絞首刑と定められているが、例えば、火あぶりや貼りつけ、さらし首などの残虐な方法での死刑執行は違憲であるとされている。
さて、このように日本の憲法上では違憲とはいえない死刑制度であるが、このことに関して国際社会と関係において考えてみる必要がある。なぜなら、日本国憲法は98条が示すように国際協調主義に立っており、国際社会の動きは死刑制度廃止に向かっていると言えるからである。
先に述べた、フランスが憲法に死刑を禁止する条項を載せたことなど、欧州では死刑廃止を人権外交の軸に据えている。また、人権の尊重を国際社会の一般利益とみる風潮の中で、死刑制度を持つ国に対する風当たりは強い。例えば、国際人権規約で、死刑制度廃止を目的とした第二選択議定書を、日本は国内の死刑制度を理由に批准していない。このように、人権をめぐる国際規範が根付き出した国際社会において、民主主義や国際法の発展を担うべき大国である日本が、死刑制度を保持し続けていることに対しては批判も多い。
また、対テロ協力の観点からも、死刑制度は大きな障害になっている。欧州は死刑制度を有する国に対する容疑者引渡しには慎重な態度を見せているからだ。例えば、アメリカの同時多発テロに関与したとされるモロッコ系フランス人について、ドイツ、フランスは死刑判決に結びつく証拠の提出を拒否、スペインもテロ容疑者のアメリカへの引渡しを拒んだ。
死刑制度は、テロとの戦いにも逆行するものであるとされる。テロの容疑者を死刑にすることでかえって殉教者を増やすことになるからだ。死刑制度は、対テロ協力を難しいものとしているのである。
以上の点から、「国際社会において名誉ある地位を占めたい」と憲法前文で宣言している日本国は、自国の死刑制度に関する議論を進めるべきである。
うーん・・・・適当にかいてみたが、こんなんでいいのだろうか?
まぁ、これからもちょくちょくかいていきます。
外国人の人権その1
キーワード: 外国人の人権、外国人の参政権、国政レベル、地方自治レベル、国民主権、マクリーン事件、社会権
人権保障を列挙する憲法第三章は、「国民の権利及び義務」と題されていることから、その対象は国民を第一においていると考えられる。ここで、外国人に対しても国民と同じく人権保障が及ぶかどうかが問題となる。
この点、日本国憲法は98条2項にあるように、国際協調主義に立っていること、また、人権は人間が人間であるために保障された前国家的、生来的権利であるということから、外国人に対しても人権保障が及ぶと考えることができる。しかし、全ての人権が保障されるわけではなく、人権の性質に応じて、外国人に対して付与するのが妥当でないもの以外の人権が保障されていると解するべきである。(マクリーン事件判決) 外国人に対して保障されない権利として、参政権、社会権、出入国関係の権利があげられる。
1、外国人の参政権
外国人の参政権に関しては、国民主権を根拠にして、選挙権、被選挙権を否定している。しかし近年、定住外国人に関しては、国政レベルと地方レベルに分けて考えるべきとする説が有力である。
①国政レベルの選挙権
国政レベルの選挙権に関しては、外国人には認められないというのが通説である。その根拠には国民主権原理がある。国政は、国家の防衛、外交など国家にとって重要なものを決定する場であり、その最終決定する権限は国民にあるという考えである。
②地方レベルの選挙権
外国人には選挙権は憲法上保証されていないが、地方自治体レベルでは法律で選挙権を与えることができるという説が有力。
憲法上の地方自治に関する規定(92条、93条)は、民主主義社会における地方自治の重要性を考慮して、住民の生活に密接に関わる事柄をその地域の住民の意思に基づいて、地方公共団体が処理するという政治形態を制度上保障するためのものである。したがって、外国人の中でも、永住者などであって、その地域に密接なかかわりを持っていると認められるものに限り、法律によって選挙権を付与することは憲法上禁止されてはいないとする。つまり、立法裁量によって、外国人に地方自治レベルの参政権を認めることは可能である。
2、社会権に関して
従来、社会権は、当人の国籍国によって保証されるものとされてきた。しかし、参政権と同じく、原理的に外国人に社会権を認めないというのは妥当ではない。なぜなら、外国人に社会権を認めることは、他の憲法上の原理原則と衝突するものではないし、むしろ困窮する外国人に対して救いの手をのべることは道義的に正しいことだからである。
日本に在留する外国人は様々であり、形式的に国籍によって判断するのではなく、生活実態に応じて社会権が保障されるべきであろう。
人権保障を列挙する憲法第三章は、「国民の権利及び義務」と題されていることから、その対象は国民を第一においていると考えられる。ここで、外国人に対しても国民と同じく人権保障が及ぶかどうかが問題となる。
この点、日本国憲法は98条2項にあるように、国際協調主義に立っていること、また、人権は人間が人間であるために保障された前国家的、生来的権利であるということから、外国人に対しても人権保障が及ぶと考えることができる。しかし、全ての人権が保障されるわけではなく、人権の性質に応じて、外国人に対して付与するのが妥当でないもの以外の人権が保障されていると解するべきである。(マクリーン事件判決) 外国人に対して保障されない権利として、参政権、社会権、出入国関係の権利があげられる。
1、外国人の参政権
外国人の参政権に関しては、国民主権を根拠にして、選挙権、被選挙権を否定している。しかし近年、定住外国人に関しては、国政レベルと地方レベルに分けて考えるべきとする説が有力である。
①国政レベルの選挙権
国政レベルの選挙権に関しては、外国人には認められないというのが通説である。その根拠には国民主権原理がある。国政は、国家の防衛、外交など国家にとって重要なものを決定する場であり、その最終決定する権限は国民にあるという考えである。
②地方レベルの選挙権
外国人には選挙権は憲法上保証されていないが、地方自治体レベルでは法律で選挙権を与えることができるという説が有力。
憲法上の地方自治に関する規定(92条、93条)は、民主主義社会における地方自治の重要性を考慮して、住民の生活に密接に関わる事柄をその地域の住民の意思に基づいて、地方公共団体が処理するという政治形態を制度上保障するためのものである。したがって、外国人の中でも、永住者などであって、その地域に密接なかかわりを持っていると認められるものに限り、法律によって選挙権を付与することは憲法上禁止されてはいないとする。つまり、立法裁量によって、外国人に地方自治レベルの参政権を認めることは可能である。
2、社会権に関して
従来、社会権は、当人の国籍国によって保証されるものとされてきた。しかし、参政権と同じく、原理的に外国人に社会権を認めないというのは妥当ではない。なぜなら、外国人に社会権を認めることは、他の憲法上の原理原則と衝突するものではないし、むしろ困窮する外国人に対して救いの手をのべることは道義的に正しいことだからである。
日本に在留する外国人は様々であり、形式的に国籍によって判断するのではなく、生活実態に応じて社会権が保障されるべきであろう。
公共の福祉
キーワード: 人権保障の限界、公共の福祉、一元的外在制約説、内在・外在二元的制約説、一元的内在的制約説、二重の基準論
人権は、人が人として生きるために保障された生来的な権利である。憲法においても、人権は最大限の尊重をもって扱われなければならないという旨が規定されている。しかし、人は社会的に生きていかねばならず、場合によっては互いの人権が抵触する場面がでてくる。こうした場合、人権は「公共の福祉」による制約を受けることとなる。
では、「公共の福祉」とはどのようなものであるのか。「公共の福祉」の問題は、人権を制約する「公共の福祉」の在り方と、どのような制約を受けるかという基準の二つにわけることができる。
まず第一に、人権に対して公共の福祉がいかに存在するかという問題を考える。これに関しては、3つの学説がある。
①一元的外在制約説
公共の福祉は人権の外側にあり、全ての人権を制約するという考え方である。その根拠は、全人権の根拠と考えられる憲法13条に求められる。13条では、人権は「公共の福祉」の制約を受けると規定されており、ここから、全ての人権はその外側から制約されることになる。また、憲法に「公共の福祉」による制約規定がかかれている、22条、29条に関しては、単なる確認にすぎず、特別の意味はないとされる。この説の問題点は、人権の外側から制約が加わるとすれば、法律による人権制約が簡単になされてしまう点である。
②内在・外在二元的制約説
公共の福祉による制約が認められるのは、憲法に明文の規定がある22条、29条の経済的自由権と、社会権のみに限られるとする説。この説では、13条はたんなるプログラム規定に過ぎず、精神的自由権に関しては性質上伴う内在的制約のみを受けるとする。すなわち、13条を根拠にする外在的制約説とはまったく逆の立場である。この説の問題点は、13条を単なるプログラム規定としてしまうと、13条を根拠に導き出される「新しい人権」が導き出されなくなるということがあげられる。また、自由権と社会権が相対化する中で、両者を明確に区別することは困難であるという問題もある。
③一元的内在的制約説
そもそも、人間の尊厳を最高原理とする日本国憲法において、個人の人権を制約する理由は、他人の人権の尊重であるといえる。したがって、公共の福祉とは、人権相互における矛盾、抵触を調整する、公平の原理であると言える。それゆえ、公共の福祉は全ての人権に内在するものであると考えることができる。
このように、公共の福祉とは人権相互における矛盾抵触を調整する公平の原理であると言えるが、この説では、人権に対する制約が、どれほどまで可能であるのかということが明確ではないという問題がある。
二重の基準論
そこで、考えられる基準が、二重の基準論と呼ばれるものである。これは、表現の自由など、精神的自由権に対しては、「厳格な基準」を用いて厳しく審査し、経済的自由権に対しては、それよりも緩やかな「厳格な合理性の基準」を用いて判断するというものである。このような二重の基準論の根拠としては、民主政の過程において、是正が可能かどうかということに関わってくる。つまり、表現の自由など、精神的自由権は、民主政治を支える根幹であり、もし仮に不当な制限が加えられると、民主政の過程においてその不当性を是正できないということになる。したがって、裁判所による厳しい基準での違憲審査が必要となるのである。一方、経済的自由権に関しては、社会経済政策に関わる問題であるので、政策の是非に関して裁判所が審査することはできず、国民の代表である議会において判断するのがよい。したがって、明白に違憲である場合以外は、裁判所は立法府の決定を尊重すべきということになる。
①厳格な審査基準
(a)規制目的がやむにやまれないほどの重要な政府利益のためでなければならず(単に合理的とか重要という理由では足りない)
明白かつ現在の危険の基準で審査(害悪発生が確実でかつ重大で、発生が時間的に切迫)
(b)規制手段はその目的達成のために必要不可欠かつ必要最低限でなければならない。(LRAの基準)
②厳格な合理性の基準
(a)規制目的が重要な政府利益であって、害悪発生の相当の蓋然性
(b)規制手段は、目的達成のための実質的関連性のある手段であり、必要最低限の規制(LRAの基準)
③合理性の基準
(a)規制目的が合理的であり、
(b) 規制手段がそれと合理的な関連性を有していればよい。
*LRAの基準
手段審査の基準。「より制限的でない、他の選びうる手段の基準」
これは、法令の定める規制手段よりも、人権制限の緩やかな規制手段が存在し、かつそれによっておも同じ目的を達成できる場合には、当該法令は違憲になるとする基準。
二重の基準論の問題点
二重の基準論は、あくまでも違憲審査基準の枠組みを示した一般的指針であり、人権の内容・規制目的・状況に応じて合憲性の判断基準を考慮する必要がある。例えば、経済的自由の規制について、すべて合理性の基準で判断するのが妥当なのかどうかなどである。
人権は、人が人として生きるために保障された生来的な権利である。憲法においても、人権は最大限の尊重をもって扱われなければならないという旨が規定されている。しかし、人は社会的に生きていかねばならず、場合によっては互いの人権が抵触する場面がでてくる。こうした場合、人権は「公共の福祉」による制約を受けることとなる。
では、「公共の福祉」とはどのようなものであるのか。「公共の福祉」の問題は、人権を制約する「公共の福祉」の在り方と、どのような制約を受けるかという基準の二つにわけることができる。
まず第一に、人権に対して公共の福祉がいかに存在するかという問題を考える。これに関しては、3つの学説がある。
①一元的外在制約説
公共の福祉は人権の外側にあり、全ての人権を制約するという考え方である。その根拠は、全人権の根拠と考えられる憲法13条に求められる。13条では、人権は「公共の福祉」の制約を受けると規定されており、ここから、全ての人権はその外側から制約されることになる。また、憲法に「公共の福祉」による制約規定がかかれている、22条、29条に関しては、単なる確認にすぎず、特別の意味はないとされる。この説の問題点は、人権の外側から制約が加わるとすれば、法律による人権制約が簡単になされてしまう点である。
②内在・外在二元的制約説
公共の福祉による制約が認められるのは、憲法に明文の規定がある22条、29条の経済的自由権と、社会権のみに限られるとする説。この説では、13条はたんなるプログラム規定に過ぎず、精神的自由権に関しては性質上伴う内在的制約のみを受けるとする。すなわち、13条を根拠にする外在的制約説とはまったく逆の立場である。この説の問題点は、13条を単なるプログラム規定としてしまうと、13条を根拠に導き出される「新しい人権」が導き出されなくなるということがあげられる。また、自由権と社会権が相対化する中で、両者を明確に区別することは困難であるという問題もある。
③一元的内在的制約説
そもそも、人間の尊厳を最高原理とする日本国憲法において、個人の人権を制約する理由は、他人の人権の尊重であるといえる。したがって、公共の福祉とは、人権相互における矛盾、抵触を調整する、公平の原理であると言える。それゆえ、公共の福祉は全ての人権に内在するものであると考えることができる。
このように、公共の福祉とは人権相互における矛盾抵触を調整する公平の原理であると言えるが、この説では、人権に対する制約が、どれほどまで可能であるのかということが明確ではないという問題がある。
二重の基準論
そこで、考えられる基準が、二重の基準論と呼ばれるものである。これは、表現の自由など、精神的自由権に対しては、「厳格な基準」を用いて厳しく審査し、経済的自由権に対しては、それよりも緩やかな「厳格な合理性の基準」を用いて判断するというものである。このような二重の基準論の根拠としては、民主政の過程において、是正が可能かどうかということに関わってくる。つまり、表現の自由など、精神的自由権は、民主政治を支える根幹であり、もし仮に不当な制限が加えられると、民主政の過程においてその不当性を是正できないということになる。したがって、裁判所による厳しい基準での違憲審査が必要となるのである。一方、経済的自由権に関しては、社会経済政策に関わる問題であるので、政策の是非に関して裁判所が審査することはできず、国民の代表である議会において判断するのがよい。したがって、明白に違憲である場合以外は、裁判所は立法府の決定を尊重すべきということになる。
①厳格な審査基準
(a)規制目的がやむにやまれないほどの重要な政府利益のためでなければならず(単に合理的とか重要という理由では足りない)
明白かつ現在の危険の基準で審査(害悪発生が確実でかつ重大で、発生が時間的に切迫)
(b)規制手段はその目的達成のために必要不可欠かつ必要最低限でなければならない。(LRAの基準)
②厳格な合理性の基準
(a)規制目的が重要な政府利益であって、害悪発生の相当の蓋然性
(b)規制手段は、目的達成のための実質的関連性のある手段であり、必要最低限の規制(LRAの基準)
③合理性の基準
(a)規制目的が合理的であり、
(b) 規制手段がそれと合理的な関連性を有していればよい。
*LRAの基準
手段審査の基準。「より制限的でない、他の選びうる手段の基準」
これは、法令の定める規制手段よりも、人権制限の緩やかな規制手段が存在し、かつそれによっておも同じ目的を達成できる場合には、当該法令は違憲になるとする基準。
二重の基準論の問題点
二重の基準論は、あくまでも違憲審査基準の枠組みを示した一般的指針であり、人権の内容・規制目的・状況に応じて合憲性の判断基準を考慮する必要がある。例えば、経済的自由の規制について、すべて合理性の基準で判断するのが妥当なのかどうかなどである。
日銀利上げ
さっそく今日のこと書きマース。朝寝坊して、起きたら昼の一時。とりあえず、近所のミスドでドーナツを食べてみる。そんで、新聞を読んでみる。日銀が利上げしたらしい。ということで、今日はゼロ金利政策について、書いてみよう!!ゼロ金利政策とは、日銀による金融緩和政策で、無担保コールレート・翌日物っていう短期金利を限りなく0に近づけるように誘導する政策のことです。日銀は、市場に出回るお金の量(マネーサプライ)なんかを上手い具合に調節して、景気を安定化させるんだが、マネーサプライは日銀でも直接いじれないから、短期金利の調節や、日銀当座預金と言われる、要は市中銀行が日銀に預けてるお金を操作して、貨幣量を調節しているわけです。んで、金利をいじくるのがゼロ金利政策、日銀当座預金の残高をいじくるのが、いわゆる量的緩和政策というやつですな。さて、金利が下がると一体どういう効果があるのか。簡単に言えば、企業は銀行からお金を借りやすくなって、その結果、投資が増えて、景気が刺激されるということがある。あとは、利子が低いとみんな銀行にお金を預けたがらなくなるから、預金するよりも現金で保有したほうがいいやという気分になって、貨幣需要は高まるという効果も。でもでも、ゼロ金利政策を開始した当初は、市中銀行は不良債権を抱えていて、民間にお金を貸さない貸し渋りっていうのが発生してたし、現金でお金を保有したがるっていうことは、つまり国民がお金を使いたくないってことだから、結果的にはあんまりマネーサプライは増えなかった。つまり、思ったほど効果なかったんだな。最近よく言われる話題の一つとして、日本の低金利政策が円安を助長してるっていうこと。円安だと、貿易収支が黒字になって日本の景気にとっては万歳万歳な感じだけど、逆に外国にとっては赤字になるからあんまりいいことではない。その背景には日本の利子の低さがあると言われている。つまり、投資家は利子の低い円でお金を借りといて、それを利率の高い外国に投資するようになる。すると、円がドンドン外国に流れていくから、さらに円安が加速する。そうすると、日本は貿易黒字、外国は貿易赤字となるわけ。政府が日銀に対して利上げするな的圧力をかけていたのは、金融緩和状態で政府が財政政策を行うと、絶大な効果が望めるということもあるのかな。あとは、実質GDP成長率が思ったより高かった割に、消費はそこまで伸びてないとか、まぁいろいろあるみたいで、そんな状況で利上げして、景気がさらに後退したらどうなるんだ!?という懸念もあるみたいです。まぁ何にせよ、利上げしたといっても、まだまだ低金利なわけで、日銀にしてみたら、金利を動かすことで金融を安定させるような正常な状態にいち早くもどしたいんだろーな。今後の景気動向には注目です!!ってことで、今日の報告終わり。また明日。ってか、これは続くのかな?w
