あれからもう2冊本を読み終えました。もう少しで夏休み合計5冊読み終えました。日本へ行く前に8冊は無理そうですが夏休み中に8月は出来そうです。
3冊目に読んだ本はゲーマーなら興味があると思います。"Console Wars"と言い90年代前半、アメリカ、セガVS任天堂の物語です。主人公は登場セガ・オブ・アメリカ(SOA)の社長、Tom Kalinskeを主役とした本です。セガが主役でも任天堂・オブ・アメリカ(NOA)の事も詳しく書かれていました。
セガジェネシス(日本でメガドライブ)はアメリカであまり売れていませんでした。人気がなくなってきていたバービー人形を復活させたKalinskeは日本のセガの社長、中山隼雄にスカウトされSOAの社長になりました。セガに必要だったのはマリオを倒せるマスコットキャラでした。幾つか候補がいてソニックが選ばれました。日本のセガが作ったソニックには牙がありギターを持っていて人間の彼女も持っていました。SOAはそれじゃダメだといい牙、ギターと彼女を外しました。ソニックはアメリカで売れるようなキャラに変えられました。実際アメリカでは大ヒット。ジェネシスも復活しました。ソニックは当時ミッキーより人気があったそうです。
しかし日本ではアメリカほど売れていません。
登場、セガのゲームにはゲームに関わった人の名前が最後に出てきませんでした。作った人たちの名前が最後に現れなければヘッドハンティングされないでタレントが会社に残るようにそうしたそうです。ソニックでは黒い画面に黒い文字で名前が流れたそうです。その理由でゲームを作った中 裕司がセガをみずからやめたそうです。日本のセガをやめましたがSOAの一員になり続編を作り始めました。
ゲーム機をアメリカで売る時、宣伝が大事でした。スティーブ・レイスという人はセガの一員にはなりませんでしたがセガの手助けをしていました。
ファミコンはもう人気でした。セガはNext Level(次のレベル)と言う言葉を使い宣伝していました。任天堂が最初のレベルなら次のレベルはセガ。色々セガにやられていた任天堂は何もしませんでした。
本にはアメリカの任天堂、NOAの始まりの事も書かれていました。大切な人物は何人かいました。社長の荒川 實。(奥さんが前の山内社長の娘)。弁護士のハワード・リンカーン。ピーター・メイン。そしてゲームマスターのハワード・フィリップス。ドンキーコングの誕生、ユニバーサルにドンキーコングの事で訴えられたり最近終了されたNintendo Powerの雑誌の生まれの事が書かれていました。ハワード・フィリップスは雑誌にゲームの評価を書いていて登場、任天堂のゲームマスターでした。登場任天堂の顔にもなっていました。任天堂ですごいのは"Video Game Crash of 1983"(アラリショック)の後、テレビゲームの人気を復活させたことです。アタリショックを簡単に説明をするとクソゲーが多すぎて誰もゲームを買わなくなったことです。
テレビゲームの売り上げを独占していた任天堂を倒せそうになっていたSOAはソニックの続編を作っていました。SOJ(日本のセガ)はソニックの相棒、2つの尻尾をもつ狐をデザインしていました。名前はマイルズ・パウアー。(miles per hourからきたそうです)。日本ではうける名前かもしれませんがKalinskeはアメリカでは人気が出ないと判断しSOJに名前を変える事を進めました。最終的には名前はそのままになりました。だけどニックネームがテイルズになりSOJとSOAが両方気に入るように行きました。
Kalinskeの目標はソニック2を世界同時発売させることでした。登場、アメリカではゲームの発売日はありませんでした。だいたいこの時期に発売される事しか分かりません。後は店で売っているかどうかです。ソニック2ですごいのは発売日を付けただけではなく世界同時発売でした。その日は火曜日、Sonic 2sday (11月24日、1992年)でした。このキャンペーンは大成功。しかしSOJはこの事を無視して前の土曜日に発売しました。
当時のアメリカはレシートや箱無しで品物を店に返すことができたそうです。スーファミが発売された頃、人々はファミコンを返しに店へ行ってました。中古なのにファミコンの金額100%戻りました。ほとんどはファミコンとスーファミの差額を払い新しいゲーム機を買っていました。任天堂が大損していたので90日間以内にしか返せない決まりを作りました。今もそうです。
セガと任天堂だけでは無いです。ソニーの関わりも本に書かれています。ソニーはスーファミのディスクシステムを任天堂と開発していました。アタリショックのせいで任天堂は任天堂のゲーム機に発売されるゲームを細かくチェックしていました。ソニーと組むことでソニーもスーファミに発売されるゲームを決めることも出来、任天堂は嫌がっていたそうです。当時のソニーインターアクティブの社長、オラフ・オラフソンが任天堂がプレイステーションの発表をするプレゼンへ行きましたが任天堂は内緒でPhillipsと組みCD-iを発表しました。頭にきたオラフソンはソニーと組みセガCDを作りました。
どんどんセガの人気が上がり任天堂はなにもしてませんでした。しかしスーファミにはモード7機能がありました、モード7は2Dなのに3Dに見えるようにした機能です。マリオカートやスターフォックスで使われてました。ジェネシスと比べるとモード7のあるスーファミの方が強いゲーム機に見えました。セガのPRの人たちは何か無いのかと調べるとBlast Modeがありました。これはプログラミングの機能でゲーム機の強さには関係ありませんでした。だけどCMではBlast Processingがあるセガジェネシスの方が強いんだと宣伝していました。
任天堂の売り上げがアメリカで落ちているのを気づいた山内社長はハワード・リンカーンの立場をあげました。1994年のCESではハリネズミハンティングのプレゼンをしレアのドンキーコングカントリーを発表しました。消えかかっていたスーファミが最後の最後で復活。
セガジェネシスとスーファミの強さを比べることが可能になりました。Mortal Kombatというゲームは2つのゲーム機で同時発売されます。血がすごくてグロテスクなゲームなので任天堂は血が見えないようにしました。セガのは完璧バージョンでした。
しかしこのゲームで政治家の目につきました。子供がこのようなゲームで遊ぶのはおかしいと言ってました。セガは当時このゲームは大人向け、このゲームは子供向けと書かれているシステムがありました。Mortal Kombatの後、今も使われているESRBが出来ました。ゲームケースにE,T、M、など書かれていて何歳用か買う前に分かるようになりました。
セガの次のゲーム機を開発してました。任天堂はプロジェクト・リアリティ(のちの64)。ソニーは極秘でプレイステーションを作っていました。プレイステーションや任天堂の次のゲーム機の強さに感ずいていたKalinskeは次のセガのゲーム機が一番弱いことに心配しシリコン・グラフィックに手助けを求めました。しかしSOJは手伝いを断りシリコン・グラフィックは任天堂と手を組みました。ソニーとのコラボレーションの可能性もありましたがそれもSOJが断りました。
実はセガには新しいゲーム機が2台用意されていました。プロジェクトマーズ(X32)とプロジェクトサターン。Kalinske本人は1台で十分だと思ってましたが上が両方発売しろと指示してました。32Xはいいとしてセガサターンの売り上げを良くしないといけないので土曜日、9月2日、1995年をSega Saturndayと言うサターンの発売日にしました。そう宣伝してきていましたが中山隼雄が「E3の日に発売しろと」としじしました。急にそう言われると売り出す店も限られてしまいます。言われたようにセガサターンはE3の日、5月11日1995年、$349で発売。セガサターンを売れなかった店は怒りセガの品物を売らないことになりました。
そのE3ではソニーのプレイステーションの発表もありました。セガを手伝っていたスティーブ・レイスはソニーの手助けをしていました。オラフソンはプレイステーションの事をかたりレイスは金額、「$299」を発表。ここからがセガの下り坂。
VIDEO 「Console Wars」の本はKalinskeがセガをやめた1996年で終わりました。
ここには書かなかった出来事も色々あります。アメリカで一番大きな店、ウォールマートの関わり。昔も今もずる賢いEA。セガを人気にするための数々のイベント。色々あります。ソニック3は実は中途半端のゲームでマクドナルドのおもちゃの発売に間に合うように発売されたこととかも書かれています。
この時代を生きた人はたくさんいると思います。アメリカで起こったセガと任天堂の戦いが書かれている本です。英語を読める方にはオススメです。近い未来には日本語に訳して発売して欲しいです。