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 下野・黒羽藩の大関氏に関心を持ったのは中学生時代ですから、もう40年以上になります。自転車で我が家の近所を目的もなくうろうろする中で、20年ほど前に気づいたのですが、東京・西新宿の甲州街道沿いに大関工務店という看板を掲げている事務所があります。突然、妙なオヤジが訪ねていって、「お宅は下野国の黒羽藩の大関氏のご関係の方ですか?」というのもどうかと思って、まだ実行はしていませんが。大関という名前は、大相撲では横綱の次のランクですが、というのはつまらぬ冗談で、珍しくはないようでいて、あまり聞かない名前です。
 黒羽の大関氏のルーツは常陸国(茨城県)小栗御廚荘大関郷とも武蔵国(東京都・埼玉県児玉郡大関村ともいわれますが、その動向が文献で確認されるのは南北朝時代からといいます。黒羽近辺に大関という地名でもあれば問題ないのでしょうが。武蔵七党のひとつ丹党流の出身だともいいます。つまりは、武士の発生は坂東=関東です。武士の発生については、いわば自己の生命と財産である農場を守るために武をみがいた、アメリカ開拓時代の農場主のような存在と考えれば、大関氏のルーツも別にどこかはあまり問題ではなく、広い関東平野の農場主がいつか、坂東の北端にあたる那須地方までやってきたと考えればいいのではと思いますが、いかがでしょうか。
  
 師走の週末の第一土曜日の午前中です。天気は快晴です。しかし、風は冷たい。軽い朝食のあと、紅茶を飲みながら、昨日にひきつづき、下野国の黒羽藩の第15代藩主・大関増裕のことをお話ししましょう。半分、社会からリタイアしたオヤジの無駄話にお付き合いください。

 増裕と呼び捨てにするのもなんなので増裕公としましょうか。彼が死亡したのは、大政奉還のその日と書きましたが、正確にはその数日後です。たぶん、本人は大政奉還のことは知っていたかと思いますが、私の勝手な推測です。
 そして、増裕公の事績をまとめた小林華平という人物は、元黒羽藩士です。会津戦争での黒羽藩の果たした役割についても1冊の本にまとめています。生前の増裕公との面識はたぶんあったでしょう。話をかわすこともあったでしょう。1万5千石の小藩ですから、藩士は江戸詰め・国元ともあわせて、100人台の小人数ですし、増裕公の言動や行動などを見ると、「お殿様」というイメージとは随分、違うなあと思います。また、南北朝時代以降の大関氏のサバイバル術は見事なものです。増裕公は養子とはいえ、大関家の伝統として「形式にとらわれない」というか、中小零細企業の身軽さを感じます。つまりカッコつけないというリアリズムです。結果、南北朝、戦国時代を生き残り、江戸時代まで家名を残し、幕末にも、藩主・増裕は幕府の要職を勤めながら、彼が急死すると、養子を迎えて、西軍=官軍方についえているですから。また、豊臣秀吉による小田原征伐で没落した北関東の大名、小名、国衆は数知れないといっていいでしょう。室町以降に家名をあげた大名は結構いたと思いますが、それ以前の南北朝からというのは、それほどいないのではと思います。いつもの癖で話がそれました。
 さて、小林華平さんの著作・発行になる「大関肥後守増裕公略記」は140頁ほどの本です。「非売品」となっていて、小林さんの住所は東京市本所区中ノ郷業平町となっていますので、東京スカイツリーの近所になるのでしょうか。発行は明治42(1910)年11月です。ほぼ100年前のことです。では、なぜ出版したのか。小林華平さんは、その序文で明確に述べています。「今、爵位授与がしきりと行われているが、我が黒羽藩にも大関増裕という殿様がいた」と。確かに明治の後半には、爵位授与に関する法令ができたようです。増裕公には跡継ぎになる実子がいなかったので、増勤(ますとし)という方は丹波の山家藩主の谷家の出身とも常陸府中藩の藩主ともいわれますが、その増勤を養子に迎えます。明治17(1884)年、子爵になっています。なお、小林華平さんが自費出版した「略記」は効果があったのかどうかはわかりません。
 西南戦争は明治10(1877)年ですが、その3年前の明治7(1874)年、増裕公のかつての部下だった勝海舟は、増裕公の経歴を石碑に彫って残しています。大関家に頼まれたのか、勝自身が申し出たのかはわかりませんが、勝海舟と増裕公の一緒の写真が残されています。慶応2(1866)年春、御浜御殿で撮影されたものです。他には幕府の軍事・外交関係の要人、フランスから幕府に招かれた軍事顧問のシャノアンという人物も写っています。その翌年の慶応3(1867)年10月(旧暦)には京都・二条城で最後の将軍・徳川慶喜が大勢奉還をしています。そして鳥羽・伏見の戦いのあと、将軍・徳川慶喜は大坂城を出て、船で江戸に戻ります。最初に上陸したのが、この御浜御殿だったかと思います。増裕公は、大政奉還の数日後に急死しています。つまり、30年ほどの短い人生だった増裕公の死の1年半ほど前の最期の写真に結果としてはなったということです。
 また、増裕公が黒羽藩の家老にあてた筆跡が「略記」には写真として、残されていますが、右肩あがりの癖のある筆跡です。
 まずまず、大関氏に関するお話しは今日はここまで。つづきはまた明日以降にしましょう。明日は大江戸骨董市が、また、11月中はお休みだった富岡八幡宮の骨董市も再開されるようです。さて、どうするか、昼には珍しく急用がはいりましたし。大関氏についての、ヒマなオヤジの無駄話でも、またしましょうか。12月はクリスマスとか忘年会とか言っているうちに、あっという間に大晦日、そして新年、初詣。それでは。

如庵