12月28日、月曜日、東京地方は寒い朝です。私は、先週の金曜日が実質的な今年の仕事納めでした。昨日は、代々木公園のケヤキ並木の骨董市に出かけました。ほぼ1か月ぶりの骨董市でした。そのお話しをする前に、おとといの深夜、たまたま目がさめてしまいました。外は凄絶なほどの月明り、月はほぼ満月に近い状態だったことが記憶にやきついています。
さて、今年最後と思い、自転車ででかけた代々木公園の骨董市、風が冷たく感じられます。 まず、古本を中心に扱うIさんのところで、「君䑓観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)」の復刻版を見つけました。このIさんからは、11月に金銅でできた胎内仏を譲ってもらいました。あの胎内仏、ずっと気になって、調べていました。このブログで、中国・朝鮮・日本の小金銅仏について書かれた村田靖子さんの「小金銅仏の魅力」という本をご紹介しましたが、その後、三橋正さんという方が書かれた「平安貴族の造仏信仰の展開」~小金銅仏のゆくえ~という論文があることを知りました。その論文によれば、従来の美術史では、金銅仏がしきりと作られたのは7世紀前半から8世紀半ば、つまり飛鳥・白鳳時代から天平時代の半ばまでで、9世紀から10世紀つまり平安時代になると金銅仏は衰退するとされてきたが、どうもそうではないのではと指摘しています。平安貴族は個人的な念持仏として小金銅仏を持ったらしいことが、平安貴族の日記からうかがえるというのです。私たちは、仏像といえば、木彫りの仏様というイメージがあります。しかし、「日本書記」の記録では日本に初めて仏教の教えがもたらされ、同時に仏像をもたらしたのは百済の聖明王のとき、ときの欽明天皇は「仏の顔キラキラし・・」と言ったという話は有名です。つまり、日本に初めてもたらされた仏像は金銅仏であったろうと思われるのです。そして、平安時代になると、貴族たちが個人的なお守りとして小金銅仏を持ったのだが、美術的にはあまり評価されなかったというのが、三橋さんの論文の主張です。一方で村田さんの本では、鎌倉あたりまでが金銅仏の最盛期で、その後は江戸時代まで細々と作られたとあります。では、Iさんから譲っていただいた胎内仏はいつのものか、ますます謎は深まるばかりです。そんな話をIさんとして、さて「君䑓観左右帳記」です。室町幕府の8代将軍・足利義政の同朋・相阿弥が、室町将軍家に伝わる唐物の美術品目録をまとめたものです。文明8(1476)年、筆写されたものが山口の大内政弘に与えられているので、単純な目録ではなく、唐物の目利きあるいは書院飾りの手引書のようなものであったとも推測されています。今でいえば、海外ブランドのガイドブックとでもいうべきでしょうか。日本の茶の歴史では、必ず出てくる書物です。これは昭和7年に東京堂が木版で復刻したものです。Iさんに譲っていただきました。
お茶の世界では、その精神性の高さから利休の「侘び・寂び」の世界が高く評価されるようですが、足利義満のころには、しきりと唐物が輸入されました。9月に名古屋へ行くことがあり、徳川美術館を訪ねたときに、ちょうど尾張徳川家に伝わる茶道具を展示していましたが、書院飾りのしつらえがしてあり、その明るさに驚いた記憶があります。そのバブリーな感じも悪くないのではと個人的には思います。
さて、その他には、自然釉がかかった須恵器の壺を譲っていただきました。土師器・須恵器はいくつか手元にあります。その造形のおもしろさから手にいれたのですが、以前から自然釉がかかったものが欲しいと思っていました。土師器・須恵器は造形的には面白くても、自然釉のかかったこの須恵器には潤い感があります。この須恵器を置いていた業者さん、年のころは70代半ばくらいでしょうか。以前は原宿の東郷神社の骨董市にでていたそうですが、東郷神社の骨董市がなくなってしまい、今は代々木公園の骨董市だけ出ているとのことでした。やはり、自然釉がかかっている分、高いとその業者さん、でもなんとかなる範囲でしたので、譲っていただいた次第です。
笑顔がいいTさんとも話しました。私のブログを読んでくださっているようで、「ここのところ、あまり書いていないですね」とのこと。その通りです、Tさん。9月末から始めた「骨董亭如庵」ですが、最初のころは毎日、書いていました。でも、そうそうネタがあるわけでもなし、あるいは私自身が浅学であるわけでして、その辺の苦衷(苦笑)をご理解くださいませ。
今年最後となった骨董市でしたが、まずまず満足のいくものを譲っていただきました。次の骨董市は新年の東京ビッグサイトの骨董ジャンボリーがあります。さて、行けるかどうかですが。
如庵