かつて私には
いじめられ体質とも言えるような傾向があった
様々な人間関係で、特定の状況が起こると
いじめられていた頃と同じような反応をしていたのだ
例えば、強い口調で何か言われると反論の余地があるのに何も言えなくなる
何か嫌なことをされてもやり返さないし
相当なショックなのに、それをそのまま受け止めてしまう
相手にされなかったりすると、自分が悪いと思って必死に謝ったりする
会話の内容も分からないのに、クスクス笑いが聞こえると自分が笑われていると感じたり
気に入られたいと思っているのに、自分の欠点を探して謝ったり
褒められても信じなかった
相手から好ましくない反応をされたとき
それを自分の責任のように受け止めてしまうこともあった
こういう色んなことが
”さすがにちょっとおかしいよ”と気付いて
そんな必要はないのだと理解して、自分を変える努力を重ねてきた
いじめられた経験のある人に当てはまるとは全然思わないけれど
私だけに関して言えば
いじめを引き寄せる性質みたいなものを
大人になってからも引きずっていたということかなあと思う
子供の頃は学校と家がすべてだったので
学校でいじめられるのは本当に苦しかった
それでも、私は幸せな方だった
友達はいなかったけれど、母が愛してくれたからだ
もちろん毎日
怯え、不安、悩み、苦悶、誰にも相談できない辛さなどをかかえていたので
どんなに母が優しくても楽ではなかったが
私にとって母は希望の源で、母が大好きだった
母は働き者だったのでいつも忙しくしていたが
食事は私の好きなものを作ってくれたし
おやつも手作りだったし
体が弱くて寝込んでばかりの私の世話を完璧にこなしてくれた
また、神はいると教えてくれて
辛いことがあっても、私は神がすべてを知っているのだと信頼することができた
亡くなった先祖もいつも見守ってくれているとも教えてくれた
そのことは確かに私を支えてくれた
今にして思えば信仰のようなものだった
他にもたくさん母の功績はある
母のおかげで私は生きることができたと思う
どうもありがとう
母にはいくら感謝しても足りない
ところで
神も先祖もいじめから守ってくれなかった とは思っていない
思ったことがない
自分の都合に合わないから神を否定するというのは自分本位な発想だと思うし
そもそも全ての人は自分が何をするか
自分で決めているものだ
考えることも
発する言葉も
何を見てどう判断するか
自分で選んで決めている
いじめる側だって、やめるチャンスはあった
毎日あったはずだ
けれども彼らはそうしなかった
いじめられていた私だって、もう少し勇気を出して立ち向かえたかもしれない
ちゃんと母に相談することだってできたのに、しなかった
自分で選んで生きているんだ
いじめは悪いことだ
選んではいけない
決して選んではいけない
代わりに、すべての人に親切にすることを選んだら良いと思う
自分から親切を始めれば良いと思う
人に親切にすると、好循環をもたらすことができる
情けは人の為ならず
いつか自分に豊かに返ってくる
善いことを選ぼう
それを続けていれば
それが自分の生き方となって
周りを照らすことができるだろう
がんばるよ!
