Maica_nの日記

Maica_nの日記

Maica_nです!
#シンガーソングライター
#日記
#あげます

「お願いします!」


学生たちの元気な声が聞こえる。

どうやら、近くの中学校で体育祭の練習をしているようだ。


まぁ近くの、といってもほぼ隣ぐらいの距離なので、ベランダからグラウンドが一望できる。


しばらくすると、運動会や体育祭では定番の"天国と地獄"が聴こえてきたので、どれどれ、とベランダに出てみたら、リレーらしき競技が始まった。

うわー、リレーやって。懐かし。

ランニングはしてるけど、全力疾走とかいつからしてないっけ?

もともとそんなに速くもないし、今は絶対もっと足遅くなっただろうな…

思いがけず歳を感じて、少し悲しくなる。


リレーといえば、小学校3年生の頃、徳島に引っ越してから初めての運動会でクラスリレーの選手に選ばれた。

まさか自分が選ばれると思ってなかったから、めちゃめちゃ嬉しくて楽しみにしてたのに、なんとはしゃぎすぎて当日に熱が出た。

どうしても行きたくて体調が悪いことを隠そうとしたけど、親には何でもお見通し。

あっという間にベットに引き戻された。

行かせて!!と号泣するも、結局欠席。

こんな漫画みたいなことある!?って思ったけど、やっぱ子どもってほんま単純。

転校生、良いところ見せたかったのに^_^



そして、これは未だにちょっと恥ずかしいけど、リレーにまつわる思い出はもう一つある。


中学生の時、私は吹奏楽部に所属していて、その中でも当時は謎におちゃらけキャラだと思われていた。正直ちょっと不本意だったけど(笑)

でも顧問の先生もユニークな方で、いつも新入生への部活動紹介や定期演奏会の構成の中にコメディ要素が入っていたので、そんな時はかなりの確率で私含め打楽器部員がおふざけ係を担当していた。


そして来たる3年生の体育祭。うちの学校では文化部運動部関係なく出場する部活動リレーという種目があった。

当たり前に吹奏楽部も出場するので誰が走るか決めている時、なーんか嫌な予感がしたので、私は大勢いる部員の後ろの方にひっそり隠れていた。

「〇〇(私)、アンカーでいいんちゃう」

あー。予感当たったー。しかもアンカーかよー。

先生のその一言で私は晴れて(?)初のアンカーになった。

しかも、他の部活はユニフォームや制服を来て走るけど、吹奏楽部にはそういうものがないので、他の部員は体操服、またまた謎にアンカーの私だけ変な格好で走るということになった。

なんでやねん、まぁいいけど!(笑)

てかアンカーとかそんな大役ほんまに私でいいんだろうか…

そんなことを思いながらあれよあれよと日が過ぎて体育祭当日。

もうすぐリレーが始まる。

私は気付けば、レインボーアフロのヅラを被り、サングラスをして、赤い薔薇の造花を口に咥えていた。

スベり倒してただの変人扱いされるかも、と不安になるクオリティ。

私は今何をしてるんだろう?と我に返りそうになったけど、あかんあかん。ここで冷静になったら終わり。

正直勝ち負けとかどうでもいい。

ただ大勢に注目されるこの時間が早く過ぎ去ることだけを考えていた。


第一走者がスタートして、吹奏楽部は早くも遅くもない順位で平和に走っていた。

そしてついに私の番。

手にバトンが渡った瞬間、よっしゃもうこの際暴れてやる!と土壇場で謎にサービス精神が働いて、すぐに取れてしまったレインボーアフロのカツラを手にぶんぶん振り回し、イェーイ!と叫びながら走った。

この時点で既にカオスである。

さらに、その日兄のお下がりの体操ズボンを履いていってしまい、ウエストのゴムが緩くて走っているうちにズボンが下がってきた。

なんて日だ!!このまま脱げたりしたらただの変態ランナーや!!

でも、吹奏楽部の部員だけはみんな爆笑してくれて、それだけが唯一の救いだった。

その後も必死にズボンを押さえながら走って、やっとゴールだと思ったら、ゴール前で撮影係の先生がカメラを構えていた。

撮るな!撮るな!絶対要らんわそんな写真!

と思いながら、しっかりピースしておいた。

そんなこんなで、リレー中は覚醒していたものの、無事体育祭は終わって日々は過ぎ、あっという間に卒業の日。

友達とワイワイ卒業アルバムを見ていたら、なんと体育祭の写真の欄に、満面の笑みでカツラを振り回し走るカオスな私が写っていた。

勘弁して…と思いながらよく見ると、その日ズボンの下に履いていた下着にプリントされたスヌーピーとちらりと目が合って、また絶望した。

結局ズボンズレてますやん。ちょっとこんにちはしてはりますやん、お犬はんが。

そうして、一生物である卒業アルバムに黒歴史が刻まれた。

まぁ、それももう今ではもう笑い話である。



二度と戻らないあの頃に想いを馳せていると、あっという間に、目の前で繰り広げられているレースも終盤を迎え、アンカーにバトンが渡った。


さて、今走っている中学生たちよ。

きちんとサイズのあった服を着て、ありのままの姿で一生懸命走るんだぞ。

そんな真剣勝負が一番美しいんだからね!


応援か野次か、よくわからない念を心の中で飛ばしながら、気付けば見知らぬ青春の勝負の行方を息を飲んで見守っていた。

私はもう10年以上ずっとショートカット。

ショートカットはすぐに形が崩れてしまうので2ヶ月に一回は必ず髪を切りに行っていた。


そして今も同じくらいの頻度、加えてライブ前にはほぼ毎回前髪を切りに行くので、いつも美容室にはかなりお世話になっている。


が、未だに美容室で上手く話せない。



徳島にいた頃、特に高校生の時は知り合いの美容師さんに切ってもらっていたのでそこまで気にしてなかったけど、大阪に出てきてから割といろんな美容室を転々としていて、その度に初めましての美容師さんと対峙することになる。



「今日はどんな感じにしましょうか?」


「あ、こんな感じでお願いします」


私は大体、して欲しいヘアスタイルの写真を見せるので、本当に必要な会話はこれだけ。


さぁ、本題はここからだ。



「学生さんですか?」


これは必ずと言っていいほど聞かれる。

滲み出るこの幼さはいつになれば消えるだろうか。


時々、調子に乗って「はい、そうです」と笑顔を嘘を吐いたこともあるが、そういう時に限ってここぞとばかりに学生生活のことを聞かれたので、バチが当たったんだと思う。

ごめんなさい。



「何かスポーツされてるんですか?」


割と小さい頃から、髪も短いし肌も焼けてるしよく走り回ってたので、自分でも聞かれる理由はわかる。

でも、そのせいで過去にあらぬ疑いをかけられたこともあった。

高校生の頃、通ってた高校の部活動が活発で、特に運動部内で先輩への接し方やルール、上下関係が厳しかった。

そんな中ある時運動部に所属してる友達から、私が先輩方から目をつけられているかもしれない、というタレコミがあり、え、何かしたっけ?と思いながら聴いていると、どうやら私のことを見た目で運動部の後輩だと勘違いしていたらしく、あの子先輩への礼儀がなってない!と言われていたらしい。

確かに当時私はゴリゴリの帰宅部で、学校での先輩後輩の関わりがほとんどなく、誰がどの部活の先輩かなんて当たり前にわからなかったので、先生と来賓の方にしか挨拶していなかった。

挨拶は素晴らしいことだけど、あの人口の多い学校の中ですれ違う人に片っ端から挨拶するのも大変なので、友達に誤解を解いてもらうようお願いして、なんとか事なきを得た。

でもそれからしばらくは、校内でジロリとした視線を感じる度、先輩…!?となり、控えめに「こんにちは〜…」と会釈をし、そそくさとその場を去ることも多かったので、内心、すみません!こんな身なりですが、帰宅部です!と大声で叫んでやろうかとも思った。


とまぁこんな具合で、なんとなくスポーツしてそうに見られることが多いけど、実際は運動不得意、思いっきりインドア人間である。



でも改めて考えてみると、美容師さんからすれば前情報はせいぜい名前と電話番号ぐらいで、会話のきっかけはパッと見のイメージから入ることも多いだろうから、自分が他人にどう見えているのか知れる機会でもあるし、あ、この人にはそんな風に見えてるんだ、面白いな、と思う部分もある。



「この辺にお住まいなんですか?」


「どうしてウチの美容室へ?」


などなど、その後も美容師さんがあの手この手で話しかけてくれるけど、大体一問一答で終わってしまう。

とりとめのない会話を繰り返すも盛り上がらず、お互い愛想笑いをしてそのまま静まり返るあの瞬間がどうにも気まずい。

そもそも初対面の人に自分の話をするのが苦手。

時々テンションが高い方に質問攻めにされたりすると、ただ座って髪を切ってもらっただけなはずなのに、帰る時にはどっと気疲れしてしまっている。

じゃあ逆に美容師さんのことを聴いてみよう!と思っても、髪を切る真剣な眼差しを鏡越しに見ていたら、邪魔しちゃいけない…!と話しかけるタイミングを見失ってしまうのだ。


わかっている。

美容師さんも、お仕事で、ご好意で話しかけて下さってる。

だからこそ、なんだか申し訳なくなる。

でも気まずいからと言って、スマホや雑誌ばかり見るのもなんだか失礼な気がして気が進まない。



はぁ。なんともわがままな客である。

私が気にし過ぎなのだろうか。

世の、"美容室で上手く話せない人"はどうやってあの時間を切り抜けているのだろうか。

正解はないんだろうけど、こればっかりは模範解答を教えてほしい。

「え、何、今お皿洗いよん?」

「うん、一回座ってもたら何もしたくなくなるけん、せなあかんことは立ちっとる時にまとめてしとかな」


ある日の地元の友人との電話中。

この時久しぶりに話したので尽きない話題に盛り上がっていたら突然、ジャバジャバ、カチャカチャ、と音がしたのでただ尋ねてみただけのほんの何気ないやりとりだけど、私は少しハッとした。


「"立ちっとる"って言い方めっちゃ久しぶりに聴いた」

「え、嘘!大阪は言わんのん?てかまずほれって方言だったんじゃ...」


おそらく私の人生で一番長く聴いてきた徳島県の方言、阿波弁。

今私が徳島にいないのだから当たり前なのかもしれないが、その何気ない瞬間、とても寂しいことに私が少しずつ「阿波弁離れ」し始めていることに気がついたのだ。


そもそも阿波弁は、イントネーションは割と関西弁に近いけど、語尾に付く"〜けん"、"〜じょ"、"〜でえ"など、他にも特有の言葉は多い。


ちなみに阿波弁といえば私が徳島に引っ越してからしばらく理解に苦しみ、今でも時々疑問に思う言葉がある。

中学生の時別の部活で怒られていた友達をたまたま見かけて、顧問の先生がその子に突然「いね!」と言い放った。

初めて聞く言葉だったので、最初は普通に稲のことだと思ったけど、それだとどうしても文脈的におかしかった。

そんな突然の"いね"に驚いて、もしかしてあの子稲畑でも荒らしたんかなと、アホなことを思っていた。

でも、それだけで終わらなかった。


その後もちょくちょく「いぬわ」「いんでくるわ」「早よ、いによ」などなどよくわからない語録がいろんな人の口から飛び出すもんだから、たまらず

「"いね"とか"いぬ"とか、何なんですか!?

まさか"い"っていう動詞があるんですか!?」

と担任の先生に突撃取材した。


先生曰く、"いぬ"は"帰る"という意味らしい。

だから友達は、ただ「帰れ!」と怒鳴られていたのだ。

いや、そんなんわかるか!!と心の中で思いっきり突っ込んだけど、早めに知れて良かった。

もし何も知らずに私がその友達と同じ立場になって、お説教中に突然「稲!」と叫ばれたら、きっと意味もわからず笑ってしまうに違いない。

しかも私にとってはただの奇行に見えるのだから、生徒のことを想い叱ってくれている先生のことを"突然支離滅裂な単語を叫ぶ変な人"だと思ってしまっていたかもしれない。


まぁそれはさておき。

じゃあ普段私はどんな日本語をしゃべっているのかな、と考えてみた。


皆さんの前で喋る時やお仕事をする時はほとんど敬語なので、方言が出ることは少ないし、強いて言えばイントネーションが関西弁寄り、ぐらいのことだと思う。


でもそれ以外で考えると、割と話す人によって自分も話し方が少し変わってくることが多いなと改めて気が付いた。


いつも相手に釣られてしまうのだ。


関西の人と喋ってたら関西弁っぽくなるし、関東の人と喋ってたら標準語っぽくなるし。

もちろん地元の子と話す時は阿波弁に戻るし、佐賀の伊万里のおばあちゃんと話す時は時々伊万里弁になったりする。

しまいには、昔初めて山口の知り合いのところに遊びに行った時なんか、滞在二日目にして無意識かつ一丁前に山口弁の「しちょる」を口走り、そのことに自分自身が一番引いた。


そして年々、そんな自分の"エセ"さに嫌気が差している。


早いものでもう私も大阪へ来て3年目になるが、関西弁は特に"エセ"と言われやすいからか余計に敏感になる。


"〜やねん"、"〜しやん"などと気安く口走ってしまった時にはまず、周りの関西人に"エセ"の目で見られただろうなと恥ずかしくなり、そして何よりエセ関西に被れかけている自分自身に虫唾が走る。


でも、思い返せば幼稚園の頃は佐賀にいて伊万里弁を、小学校低学年の二年間は神奈川にいて標準語を、その後高校を卒業するまでは徳島で阿波弁を聴いて喋っていたとすると、この時点で、日本語の中だけで言えばトリリンガルなのだ。

だから、今まで方言の乗り換えを意識したことはほとんどなかったし、こんなことを真面目に考え出したのも大阪に来てからである。


それほど私の中で関西、特に大阪のハードルは高いのだ。

そして、私が完全に関西弁に乗り換えても良いという権利は、あと5年はもらえないだろう。

知らんけど。

三つ年上の兄とは、昔から正反対だった。


子どもの頃は特に、兄は几帳面で少しシャイな反面、私は雑でもあまり気にしないし、初めて会った人とも割と話せた。


根本が違いすぎるせいで本当に喧嘩ばかりしていたし、兄の反抗期の時期は、お互い追いかけ回して取っ組み合いになったこともあった。

もうお互いの一言一言が気に障って仕方なかったんだろうと思う。


でもやっぱり、年上のお兄ちゃんに力で勝てる訳もなく、口喧嘩でも言いくるめられてばかりだったので、ある時から"反撃しなければ喧嘩にならないのでは?"と思うようになった。

例え負け戦になっても、もう喧嘩する労力を使う方がしんどい、と幼いながらに少しずつ反抗することを辞めた。

ちょうどその頃兄の反抗期も終わって、少しずつ目立つ喧嘩は減ったけど、お互いに腹が立つことがなくなる訳ではないので、その度にグッと我慢して無言で立ち去ることが多くなった。

そうして、私が小学校高学年になった頃から、今までの激戦が冷戦に変わり、兄が高校を卒業するまで、ほとんどお互いの部屋にこもり、ご飯を食べる時くらいしか顔も合わさず、会話も必要最低限しかしなくなった。


ふと、兄弟って皆こんなもんなの?と疑問に思うこともあった。

友達の兄弟の仲良い話を聞くたびにギャップを感じて、自分たちもいつかこんな風になれるんかな…と少し寂しい気持ちになったりもした。


そんなこんなで兄が高校を卒業し、入れ替わりで私が高校に入学した。

すると、その頃からなんとなく、兄が優しくなったような気がした。

たまたまリビングで二人になった時に話しかけてきてくれたり、お腹が空いた時に"食べるか?"と私の分も作ってくれたり。


こんな風にゆっくり話してるのはいつぶりだろう。

私はいつもと変わらない風に装って喋っていたけど、正直少し戸惑った。

しばらくまともに世間話もしてなかったからか、何をどんな風に話せば良いかわからなくなっていた。

でも、このまま一生仲が悪いまま関わることも減っていくのかもしれないと思うと、やっぱり寂しかった。


だから、その時兄がどんな心境だったのか、はたまた何も考えてなかったのか、それはわからないけど、兄が一足先に大人になって少しずつ話すきっかけを作ってくれたような気がして、嬉しかった。


そうやって、少しずつ冷戦は終わっていった。

ある時兄とふと"昔はマジで喧嘩しかしてなかったよなぁ"と笑い合えた時、あ、大人になったんだな、とちょっとだけ思った。


兄からすれば、私はきっとおてんばでいうこと聞かないわがままな妹だっただろうし、末っ子の私にはわからないけど、"お兄ちゃんだから"と、我慢を強いられたことも何度もあったと思う。


それでも、重いものを持ってくれたり、私の分もご飯を作ってくれたり、一緒に遊んでくれたり、兄の友達も私を仲間に入れてくれたり、喧嘩ばかりしていたけど、その分楽しい想い出も沢山あった。

昔から、きっと兄のささやかな優しさが近くにあったのに、幼かった私は自分の気持ちに精一杯でそれに気づけなかった。

私は十分お兄ちゃん子だったのかもしれないなと、今になって思う。



そして、私も高校を卒業して、大阪で一人暮らしを始めた頃のこと。

兄との想い出の中で一番グッとくる出来事があった。


念願の初ミニアルバムが発売された時。

突然兄から友達とカラオケで収録曲の"Dance with me"を歌っている動画を送って来てくれて、"応援してるから歌いに来たぞ、頑張れ"とメッセージをくれた。


言葉にするのは少し恥ずかしいけど、あんなに喧嘩ばかりして仲の悪かった兄にこんなメッセージをもらえるなんて…!と素直に感動したし、なんだか、兄弟愛を感じた。


その後も発売記念の神戸のリリースイベントも、四国放送まつりも観に来てくれたり、相変わらず時々だけど連絡も取り合っている。


私たちはなんだかずっと奇妙なバランスを保って"兄弟"をやってきた。

私もまさか兄のことでこんなにブログを書く日が来るとは思ってなかった。

それに、もっと距離の近い兄弟は他に沢山いるだろうけど、私はむしろこのぎこちない距離感や、奇妙なバランスが愛おしくなってきた。

きっと、私たちは喧嘩するほど仲が良い。

webちくまは、いつもAマッソ加納さんのコラム「何言うてんねん」を読む時に開いている。


高校生の時にAマッソと出会った。

なんだこのぶっ飛んだ人たちは…!と思い、いろんな番組を見漁った。

その後すぐにこのコラムの存在を知って、初めて読んだ「お前は穴や、」の回の「ギャルに根菜を取られた」という書き出しに惹き込まれ、それからずっと連載を読み続けている。

去年発売された初のエッセイ本も、近くの本屋の在庫が残り1点と知って走って買いに行ったのをよく覚えている。

読む度に加納さんの知的でユーモアに溢れた言葉遊びが好きになるし、実はこうしてブログを書く時も加納さんみたいに書きたいな、と少し意識してみてはいるけど、到底語彙もセンスも叶わないと思い知って終わることがほとんど。


そして加納さんはもちろん、星野源さんのエッセイも大好きで読んできたけど、いつも思うのは、本当に日常を切り取るのが上手だな、ということ。

きっと誰もが馴染みのあるような普遍的な日々の出来事を、様々な角度から、時には面白おかしく時にはシリアスに表現し、巧みな言葉で魅了する。

自分の言葉にするって難しいけど、同時に言葉というのはどこまでも広がっていけるんやなぁ、と染み染みする。

日々に寄り添う音楽を作りたいという想いは、そんな憧れから来ているのかもしれない。



話は少し変わって。

今日もたまたま、加納さんのコラムを読もうと思ったら、サイトの下の方に表示されていた人気の記事という欄に、気になる言葉を見つけた。


「差別があるままに他者と交わる世界に生きている」


鳥羽和久さんの「十代を生き延びる 安心な僕らのレジスタンス」という同じくwebちくまでの連載、第六回のタイトルだった。


そこでは、ある高校の生徒会室で「制服選択制」について話し合う生徒たちの一コマを綴ってあった。


「あなたはきっと今日も差別をしました。」

という一言にハッとする。


社会には差別がこびりついている。

今までなんとなく直視してこなかったことを、目の前に掲げられたような感覚だった。



ずっとどこか腑に落ちなかった。

今まで何度も学校や、大人から「差別はいけない」と教わってきた。

もちろん、いけないのはわかってるつもりだったし、差別主義者にもなりたくない。

でもその反面、そう教える人たちや環境の中にも差別があるのではないかと感じていた。

意図のわからないルールや校則があっても、納得できる答えどころか、何の説明も無かった。

そうやって無理に理不尽や価値観を押し付けられても、そこからまた偏見や差別が生まれるんじゃないか。

物事の境界線がどこにあるかなんて、一人一人違うだろうに、常識というものがある時点で差別が生まれてしまうんじゃないか。


だから初めて「常識とは、十八歳までに身に付けた偏見のコレクションである」というアインシュタインの言葉を読んだ時は、ほんまにそうやわ、と思わず声が出た。


それに続いて今回の鳥羽さんの文章は、これまで無理に自分を納得させようと綺麗事で蓋をしたまま、私の中でずっとふらふらと彷徨っていた違和感に、落とし所を作ってくれたような気がした。


もちろん、私もきっと無意識の中に沢山の偏見や差別があって、そう簡単に、いや、"差別について語る"なんてきっと一生できないと思う。


だからこそ「差別があるままに他者と交わる世界に生きている」このことに少しでも気づけたことに意味があると思いたいし、違和感を上手に言葉にして、気づかせてくれた鳥羽さんに心から感謝している。


欲を言えば、もっと早く、10代の頃にこの言葉たちと出会いたかった!