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第一章

 

 ウィトゲンシュタインは、独我論の不可能性、および私的言語の不可能性を証明したと通俗的には説明される。「語り得ぬものについては沈黙しなければならない。」つまり、言語が有意味に機能する領域の外側に関して何かを言葉で語ろうとすれば、その言葉はナンセンスになると。ここで「有意味」とか「ナンセンス」とか言っているのは、言語における全くもって根本的・基本的な次元に関してである。「この研究にはこういう社会的意味がある」とか「そんな考え方はナンセンスだよ」とか言うような相対的な意味においてでは断じてなく、言語が言語として理解されることが可能となっている根本的・基本的な次元における有意味さ、及びそれと対照されるナンセンス・無意味さについての話である。すなわちこれは、世界の中の話なのではなく、世界の枠組み、あるいは世界の中と外について語ろうとしているものなのである

 であるとすると、ここで必然的に生じるのは、言語の根本的・基本的な次元におけるナンセンスについて語ったり思考したりすることとは一体全体どういうことなのか、という問いである。そのようなナンセンスなものは、あり得ないはずである。有意味な言語を用いて表される世界の全ての事がらのうちには、根本的な意味での「ナンセンス」なものは存在しえない。それは絶対的な無である。パルメニデスのいうように、あるものはあり、ないものはないのである。さらにいえば、あるものだけがあり、ないものは決してないのである。

 この、絶対的なナンセンスを思考することについての戸惑いは、さらに私をしてウィトゲンシュタインに対して以下のように問わしめる。「『語り得ぬもの(=根本的ナンセンス)については沈黙しなければならない』と、世界の中にいるあなたが、有意味な言語によって表現するとは、一体どういう事態として理解したらいいのか。そのあなたの表現自体が、有意味に成立しているときには、語り得ぬものなど最初から最後まであり得ないのだし、そうではなく、それが根本的ナンセンスを指し示そうとするものであるのならばそのときには、自己矛盾的表現でしかなくなるのではないか。」いや、問いかけの矛先はウィトゲンシュタインのみでなく、彼の哲学を追うことで根本的ナンセンスを思考しようとしているこの論考全体にまで及ぶ。ここには有意味な言葉しかないではないか。それどころか、世界には有意味な言葉しかない。我々は世界の中にしか居ることができない。中、と表現することさえ余分だ。“これ”しかない!

 ひとまず冒頭の話に立ち戻ろう。独我論の不可能性を論じたと紋切型的に紹介されてしまうウィトゲンシュタインだが、それをなにか「独我論が(解決されるべき)問題だから頑張って解いたんだ」とかそのようなしょうもない理解をしてしまっては、何一つ得るものはない。彼の思考は、独我論的感覚によってはげしく駆動されていたのであろうが、その営みは、望まれた解決を目指してのものではなく、ただただ論理的に考えていくと突き当たる「何かがおかしい」という哲学的感性に導かれていったものなのであろう。彼の葛  藤とはおそらく、「何故、『私しかない』というこんなにもリアルなことが、言葉の上に表せないのだろうか」というものであったのだと思う。

 永井均がその著作で論じていることだが、独我論の問題には、それが語られた瞬間には語っている当人の問いたかった次元が消え去ってしまうという、表現されること自体にまつわる独特の困難さがある。この困難さはウィトゲンシュタインがまた別に問題とした、文法や語の意味に関しても、異なるかたちではあるがあてはまるものである。この、独我論を語ることの困難さについて非常に雑駁に説明するならば、「早川祥平にとっての世界しか存在しない」であるとか「世界はその限界点であるこの私からしか開かれていない」であるとか、どのように表現したところで、それが理解された途端に、すなわち有意味な言語の次元にのった瞬間に、狙われていたのとは異なることを意味し始めてしまうということである。一つ目の主張を受け取った者からすれば、世界の中の一存在者である「早川祥平」が何かを語っているという時点で、たかだか世界の存在が成立した後の主観の相対性のようなものに関して論じている、ということにしかならない。二つ目の主張からは、先の主張において問題とされた「早川祥平」という一存在者ではなく、なにか超越論的な地点が問題なのだと訴えるような響きが感じ取られるが、そのような超越論的自己もまた、理解されると同時に複数化されるか奪い取られるかしてしまい、「この私からしか開かれていない」わけではない(「いや、読み手である、この私からも開かれている/この私からしか開かれていない!」)ことになってしまう。独我という、まさに、比較のしようがないこれだけがただあるということ(=世界があるということ)が、言葉の上には載り得ない。というのも、「私しかない」ということも、それと同じ意味としての「世界がある」ということも、根本的ナンセンスにあたるものなのだから。では、「私しかない」わけではないし、「世界がある」わけではないということになるのか。そうではないのだ。何かが示されようとしているのに決して示されえない、そんな事態が起こっているということなのだ。

 ここまで来ればわかるように、ウィトゲンシュタインが独我論の不可能性を論じたと言ってすませるだけでは、事の本質は見えてこない。「独我論はもうウィトゲンシュタインによって論駁されているよ」などと言うことには、知的自己顕示欲を満たすこと以上の何の意味もない。彼の哲学的格闘が至ろうとしていたのは、有意味な言語と根本的ナンセンスとの狭間の次元、相対的なものと絶対的なものとが邂逅する次元であったのだといえる

 

 

 

 

第二章

 

 世界の中には有限で相対的なものしかない。「時間」と「空間」というアプリオリな形式のなかで、全てのものが、生じては消えるという移ろいのなかにある。普通に考えて、というか、どう考えたところで、普遍的・永遠的・絶対的なものなどあろうとは信じられない。当然である。世界の中には、そんなものの現れる余地はない。だから、「悟りを開いた」とか「真理に至った」と言い張る者に対して我々は、「なにか具体的な経験をして、それがその人の精神状態に作用し、変化が起きたのであろう」という、相対的な次元における理解しか与えられない。そしてまた、いずれは消え去る「あの時はどうかしてたよ(笑)」的な一過性の精神状態としてしか、「悟り」の意味を理解できない。

 悟りの次元とは、世界の枠組みに関する話なのである。普通に考えると突き当たる相対的な次元において、なおも普通に考えるということを重ねることで開かれる、絶対的なものにふれる次元である。第一章ではそのことを独我論との関係で論じた。ここでは、また別のウィトゲンシュタインの議論を拝借して、この次元について述べようと思う。

 『倫理学講話』という題のもとに記録されている講演において、ウィトゲンシュタインは、絶対的な善とはいかなるものかという点に関して論じている。世界の中における相対的な善とは対比される絶対的な善について、彼は、それを象徴する四つの経験があると述べる。ここではそのうちの二つ、「絶対に安全であると感じる経験」と「世界の存在に驚く経験」とを考察しよう。ウィトゲンシュタインによれば、前者は、何が起ころうとも私は安全だと感じる経験であり、後者は、世界がいかなる状態であるにも関わらず存在していることに対して驚く経験である。これらは相対的な次元において普通に考えたとき、全く意味不明なことを言っている。何故なら、前者の経験は、どのような残酷な拷問を受けたとしても私は安全だと感じると言っていることになるし、後者の経験は、明日雨が降ろうと降らなかろうと私は驚くと言っていることになるからだ。ウィトゲンシュタイン自身、これらの言葉の使い方は誤用であると即座に認めている。では、そのような誤用でしか表現することができない事がら、誤用にしかならないとわかっていてそれでも表現したくなってしまう事がらとは何なのか。そのような事がらこそが、根本的ナンセンスであり、絶対的なものである。

 悟りとは、世界の中に生きて、その相対的な次元が絶対的な次元にふれることを体験するということ、あるいは、既に常にふれていたのだということに気付くことを指すのだろう。であるからして、悟りは相対的な次元が絶対的な次元にとって代わられるということではない。悟りは決して相対的な次元をかき消すことはしない。私の体感しているこれが仮に「悟り」なのだとして、この世界のなかで年老い、病に苦しみ、「あのとき『悟った』などと感じたのは全くの妄想であった」と思ってしまう可能性さえ不思議ではない。にもかかわらず、たとえこの先私が悟ったと確信し続けるとしても続けないとしても、それら相対的な次元において起こることのすべてが、常に絶対的な次元の隣にあるということ、そのことへの論理的かつ体感的気づきが、悟りなのだと思う。

ニーチェが表現した、畜群への嫌悪。あれに近いものを感じている。とは言っても俺の場合は、単に超人的な視点からの絶対的侮蔑というようなものではなく、いささかの同族嫌悪も伴ったものではあるが。

誰もが権利を求めている。求めるどころか、それが認められることを当然としている。浅はかで、矮小で、醜悪な自己をそのままさらけ出すことに何の違和感も、問いも、持たなくなっていく。そんな事態に対して抱く感情は、吐き気としか言いようがないような代物である。

顔のない人に対して、顔のない人が、憂さ晴らしのためにか、報復感情からか、正義感からか、罵声を浴びせる。そんな場面に対して俺が軽蔑を感じるのは、単に彼らの思考が稚拙だからではなく(そのような場合もありはするが)、より根本的に、彼らの態度そのものに卑小さを感じるからである。お前は、実際に生活を共有する人間の目の前において、自らの顔と生き様と思想とを批判の俎上において差し出し、自らも傷を負うことを覚悟した上で、そのような言葉を吐けるのか?

人の話を聞くことができるかどうか、この些細ではあるが重要な一点において、俺は人を判断する。それは別に、言う通りのことを実行してくれるであるとか、こちらが言う何事にも賛同してくれるとか、そういうことではなく、目の前にいる人間が何を表現しようとしているかを見極めようと努力するということである。議論というものは、一旦「論破する」ことが自己目的になった途端に意味はなくなるし、それに躍起になっている人間を見ることほど悲しいことはない。だってそれ、何のためにやっているの?議論というフィールドにおける自らの知性の卓越性を示してるの?それほんとガラクタだし、いずれ誰も議論に付き合わなくなるだけだよ。

粗雑な情報の海を、”賢く”フィルターを使って、自らに都合のよいものだけ拾い集めて行けばいい、なんて、そういう考え方も気に食わない。それこそまさに、よくわからないものを理解しようと努力する態度を失わせるということだから。目の前にいる人を”いない”ことにしてしまう可能性を持つものだから。付け加えて言えば、フィルターを「使って」というような言い方にも問題がある。以前にも書いたことだが、主体が純能動的に対象を操作する、という構図は端的に誤りであると思う。対象はそれ自体こちら側に対しても作用している、もしくは、主体と対象は相互作用的なのだと言ってもいい。はさみという対象は、その構造によってある種の限界性を人間に対して提示し、それに適合するかたちで手や指を動かさなければ、適切に物を切断することはできない(構造を無視して純能動的にだって使えると思う人、刃を開いたままのこぎりのようにだって切断できるという人は、勝手にそういう使い方をしていればいい。その間に他の者はより早く綺麗に切断していくだろう。そして本当に純能動的にと言うのであれば、取っ手の部分をこすり付けるときの摩擦でも切断が可能だと、是非示してほしい。もちろん可能であろうから)。そして、そのように対象の構造を理解し適応したという経験は、次の機会においてより滑らかにはさみを扱えるような自分を作り上げる。すなわち、純粋な主体としての自分がこちら側にいて、向こう側の対象を操作しているのではなく、対象と関わりを持つ度に自らもかたちづくられているということだ。

対象と関わりを結ぶ度に自らがかたちづくられるということ。この認識は、一つ一つの些細な行動がそのまま、自分がどのような存在であるかという点と直結していることを指し示す。使い馴染んだはさみを手にすれば、巧みに切断を行える自分になるように、使い馴染んだ言葉・思考が表現するのは、それまでの経験の歴史を伴った自分である。それゆえ、自分がどのような言葉で語っているのか、どのような言葉を浴びているのかを注視し、そこで活動している自らの精神状態を反省的に精査することで、自らがどのような存在でありどのような存在になろうとしているかを忠実に捉えることができる。

自らがどのような存在であるかということは、全くもって明瞭なことではないのだ。もし仮に、自分の中にまとまった思考がそれ自体で存在していたなら、このような文章を書くことももっとすらすらと容易に出来てしまってよかったはずである。自分の考えていること、自分の思っていること、自分とは何なのかということ、それら自体複雑で、そう易々と手に負えるものでもないのだ。だから、言葉にしてみて、或いは誰かと話してみて初めて、自分がこんなことを考えていたのかと驚くことがある。それは往々にして、ぼんやりとわだかまる思考の種を、シャープで簡潔な表現へと押し込めてしまわないで、丁寧に縒っていくことで成就するものかと思う。世界で起こる出来事のなかで、単純なことなど一つもないのだ。その複雑性をどのように表現していくか、この点に対する努力を知る者こそを、俺は友としたい。

 

 

心情や、信念や、思考は、避けがたく移ろってしまうから、いつかの自分の言葉に恥じることも言い訳を付すこともなく、ただ、今ある自らの姿に嘘がないように努めればそれでよいのだと思う。と、言葉にしてしまうこと自体、遂行矛盾のようなものだけれど、「言葉にできない大事な何かがある」というような表現方法でしか近づき得ない感覚もおそらくあるのだ。
そもそも、根底的なところで変わっていってしまうという事実があるからこそ、言葉はそれを留めおこうとするのだろうか。それは誓いであり呪いということになる。今俺が書き残すこれは、少し先の未来において、どちらであったのかが明らかになる。考えたとてどうにもなりはしないのだが。
生身の自分がどのような存在であるかということ、自然体に振る舞う自分の中から、どのような行動や言葉が溢れ出てくるかということ、それだけが肝要なら、思っているより荷物は少なく、その行路は果てがない。