1952年のディズニー短編映画『ちいさいおうち』を観る。
原作はバージニア・リー・バートンの古典的絵本。
僕はこの絵本を子供の頃に読んで涙した憶えがある。
もちろん、数十年を経ても僕はこの映画で絵本を思いだし惜しみなく涙した。

どうして、僕たちは映画を観るのだろうか。そして涙するだろうか

それはきっと「みにくいアヒルの子」が絶えず白鳥にはなれないことを知っているからだ。どんな人生であれ、排除され孤独に沈む苦しみや悲しみを知っているからだ。だから「みにくいアヒルの子」は白鳥であってほしいと望むのだ。

僕たちはどんな排除される立場の人間にも映画の光と影の中に同化す
る。
そして、絶えず、彼らが白鳥であって欲しいと願うのだ。

例え摩天楼の中にジャングルを恋しがって大猿が息絶えたても、塹
壕から蝶に触れたくて手を伸ばしたために狙撃され兵士が短い生涯を閉じたとしても、僕たちは彼らが白鳥であったと信じたい

僕たちは小説や詩を支配できても映画を支配することは出来ない。
映画は映画が決めた時間で僕たちに休む間も与えずに光と影と音で語りかけてくる。
「みにくいアヒルの子」は白鳥じゃなかったのかと。
お前たちは白鳥の世界を見たいと望んでいるのだろうと。
考えよ、感じよと映画は僕たちをすっかり支配してシートに座らせるのだ。

「みにくいアヒルの子」はいつも白鳥にはなれないという現実を僕
たちが知っている、そんな社会に生きている限り、映画はどんな時代になってもなくなったりはしない。なぜなら、映画から解放された瞬間、僕たちは現実という外側へ出て行って白鳥になろうと社会で排除され、また一方で排除し続けるからだ。

映画は現実逃避なんかじゃない。
現実逃避しようとしている我々を現実に立ち戻らせるのだと思う。
「みにくいアヒルの子」が絶えず白鳥にはなれないことを知っている我々に白鳥になれる方法を考えよと映画は絶えず我々に語りかけてくるからだ。

執筆:永田喜嗣