世間で言う「佐村河内守事件」でどうしてもわからない点がいくつかある。
私自身の問題として考えてみれば、私は音楽家ではないが文字を書く事を生活の大半に費やしている。
現在まで小説、詩、戯曲、エッセイ、評論、論文とずい分たくさん書いてきたが、ただの一度も他人の書物を拝借したこともなければ他人に書いてもらったこともない。
もちろん、佐村河内守氏のような大きな舞台で活躍をしたり、物書きとして華々しく活躍する様な機会には恵まれたことはないが、自分の作品は自分の頭と手で生み出し続けて来た。
佐村河内守氏のようにゴーストライターの手によって「自作品」を生み出すなどという行為は到底理解できない。
それは創作として喜びを得られる行為ではないのは明らかだ。
売れない物書きでも私は私自身の個性を持った作品を生み出せることに幸福と感謝を常々感じている。
誰しもがそうだと思う。
ならば、佐村高知氏が求めたものは何であろうか。
経済的成功か?
あるいは名声を得ることだろうか?
それは佐村河内氏にしかわからないことである。
少なくともそんなことをしてまで経済的成功や名声を欲しいとは私は思わない。
それが普通の感覚だろう。
佐村高知守氏はすでに多くの「嘘」を行ってきた。
作曲が自作ではなかったこと。
「現在も全聾」がそうではなかったこと。
氏の自伝『交響曲第一番』も虚偽に溢れている事は明らかだ。
どうしてここまで多くの「嘘」を必要としなければならなくなったのだろうか。
それは簡単に言えば人間の弱さなのかもしれない。
しかし、だからといって世間や人を欺くことは許されない行為だ。
特に身体障害者を装った(新垣隆氏の証言で佐村高知氏が通常に耳が聴こえていたとする証言が真実だとすれば)ことなどは許されることではないのだ。
どうして、彼は身体障害者を装うと考えたのか。
それが大きな疑問である。
佐村河内守氏が全聾であると偽った理由は世間では身体障害者で作
曲家であることが有利に働くという計算からであると見るのが有力
だ。
しかし、氏の自伝『交響曲第一番』を読むと実は最初はそうではな
かったのではないかと思える節がある。
自伝では全聾になって音が聞こえないので録音された音を聞いて録
音したりすることが出来ないため、信頼のできる助手を伴ってスタ
ジオへ行き助手に任せて自分はそれを監視して黙って座っていたと
ある。その理由は全聾であることが露見することを恐れたためだと
も書いてある。
ゲーム音楽「バイオハザード」の録音現場である。
また、ゲーム「鬼武者」の音楽「交響組曲ライジング・サン」の初演時には全聾であることを開示していたが、指揮者とは筆談で打ち合わせをしたとある。この指揮者とは「週刊文春」によるとゴーストライターだった新垣隆氏のことである。
自伝には書かれていないが、「交響曲第一番HIROSHIMA」の演奏のための指揮者との打ち合わせは耳が聞こえないこ
とを理由に指揮者に一任していたという話もある。
こうした事柄を繋いでゆくと、佐村河内氏が全聾を装ったのは音楽
知識や技術がないために専門的な話や打ち合わせを避けるためでは
なかったと思われる。
ゴーストライターである新垣氏に曲を書いてもらい、その曲に関して専門的な打ち合わせが関係者と行われた場合に対処できないため、耳が聞こえないとし始めたのではないかと考えられるのだ。
やがてその嘘は美談を呼び二重の効果を生む。
だが、その最初の嘘に辻褄を合わせるためにどんどんと嘘を抜き重
ねなければならなくなる。
今では「現在も全聾である」ことが嘘であったと告白せねばならな
くなった。もう誰も信用しないだろう。
嘘が嘘を呼ぶ・・・。
自分の能力を超えた能力を見せようとしたために嘘をつかなくては
ならなくなった・・・これはいったい何なんだろうと思う。
執筆:永田喜嗣
私自身の問題として考えてみれば、私は音楽家ではないが文字を書く事を生活の大半に費やしている。
現在まで小説、詩、戯曲、エッセイ、評論、論文とずい分たくさん書いてきたが、ただの一度も他人の書物を拝借したこともなければ他人に書いてもらったこともない。
もちろん、佐村河内守氏のような大きな舞台で活躍をしたり、物書きとして華々しく活躍する様な機会には恵まれたことはないが、自分の作品は自分の頭と手で生み出し続けて来た。
佐村河内守氏のようにゴーストライターの手によって「自作品」を生み出すなどという行為は到底理解できない。
それは創作として喜びを得られる行為ではないのは明らかだ。
売れない物書きでも私は私自身の個性を持った作品を生み出せることに幸福と感謝を常々感じている。
誰しもがそうだと思う。
ならば、佐村高知氏が求めたものは何であろうか。
経済的成功か?
あるいは名声を得ることだろうか?
それは佐村河内氏にしかわからないことである。
少なくともそんなことをしてまで経済的成功や名声を欲しいとは私は思わない。
それが普通の感覚だろう。
佐村高知守氏はすでに多くの「嘘」を行ってきた。
作曲が自作ではなかったこと。
「現在も全聾」がそうではなかったこと。
氏の自伝『交響曲第一番』も虚偽に溢れている事は明らかだ。
どうしてここまで多くの「嘘」を必要としなければならなくなったのだろうか。
それは簡単に言えば人間の弱さなのかもしれない。
しかし、だからといって世間や人を欺くことは許されない行為だ。
特に身体障害者を装った(新垣隆氏の証言で佐村高知氏が通常に耳が聴こえていたとする証言が真実だとすれば)ことなどは許されることではないのだ。
どうして、彼は身体障害者を装うと考えたのか。
それが大きな疑問である。
佐村河内守氏が全聾であると偽った理由は世間では身体障害者で作
曲家であることが有利に働くという計算からであると見るのが有力
だ。
しかし、氏の自伝『交響曲第一番』を読むと実は最初はそうではな
かったのではないかと思える節がある。
自伝では全聾になって音が聞こえないので録音された音を聞いて録
音したりすることが出来ないため、信頼のできる助手を伴ってスタ
ジオへ行き助手に任せて自分はそれを監視して黙って座っていたと
ある。その理由は全聾であることが露見することを恐れたためだと
も書いてある。
ゲーム音楽「バイオハザード」の録音現場である。
また、ゲーム「鬼武者」の音楽「交響組曲ライジング・サン」の初
自伝には書かれていないが、「交響曲第一番HIROSHIMA」の演奏のための指揮者との打ち合わせは耳が聞こえないこ
とを理由に指揮者に一任していたという話もある。
こうした事柄を繋いでゆくと、佐村河内氏が全聾を装ったのは音楽
知識や技術がないために専門的な話や打ち合わせを避けるためでは
なかったと思われる。
ゴーストライターである新垣氏に曲を書いてもらい、その曲に関し
やがてその嘘は美談を呼び二重の効果を生む。
だが、その最初の嘘に辻褄を合わせるためにどんどんと嘘を抜き重
ねなければならなくなる。
今では「現在も全聾である」ことが嘘であったと告白せねばならな
くなった。もう誰も信用しないだろう。
嘘が嘘を呼ぶ・・・。
自分の能力を超えた能力を見せようとしたために嘘をつかなくては
ならなくなった・・・これはいったい何なんだろうと思う。
執筆:永田喜嗣