カメレオンマン。

周囲の環境に合わせてどんな人間にでも化けてしまうという病を持ったユダヤ人の男を描いた奇妙な映画。

それが『カメレオンマン』である。

1930年代、アメリカに住むユダヤ系小市民ゼリグ(ウッディ・アレン)は自分の身を守るために周囲に溶け込もうとするあまり自らの容貌や人格を変えてしまうという奇妙な病気を持った男である。

 

突然、精神科医になったり、また労働者になったり、小説家になったりする。

どんな職業でもカメレオンの様に模倣して成りきってしまう。

 

映画『カメレオンマン』は1930年代のニュース映像や記録フィルムを多用して、その中に合成でウッディ・アレンが演じるゼリグをはめ込むという特異で斬新な構成をとっている。

 

実在した著名人が何人も登場し、映画はゼリグを追ったドキュメンタリー映画として構成されている。

ベーブ・ルースやフィッツジェラルドなどなど、果てはローマ法王やヒトラーまで、ゼリグは肩を並べて画面に登場する。

回想シーンや証言シーンになると、アーヴィング・ハウなど実在の評論家や小説家が自身の役で登場し、ゼリグに関して解説するという凝り様だ。

 

この映画の言わんとするところは簡単に言えば「ユダヤ人」とはどういう人物かということである。

ア レンはそれを自身で自虐的に表現しているのだ。どんな国籍にでもどんな職業にでも順応し、変身することが出来るというカメレオンマンの特異体質はそのまま ユダヤ人の特徴としてオーヴァーラップしている訳である。ユダヤ人が各所で馴染んで同化しているのはゼリグと同じように「身を守るため」姿を変えている、 それが出来るのだと言っている訳だ。

このように解説してしまえば凡庸で何も面白くはない。

 

なるほど『カメレオンマン』とはそういった主題の映画ではある。

 

しかし、アレンの視線は主人公ゼリグよりもゼリグが溶け込んでゆく環境にいる人びとに注がれている様にも見える。

確かに特異体質のゼリグは超人的な力で成りきり変身を行う。

彼は世界でも珍しいカメレオンマンなのである。

だが、そのカメレオンマンを巡る周囲の人びと「大衆」を見れば彼らこそが更に巨大なカメレオンマンであるというのがこの映画の最も興味深いアイロニーなのだ。

 

ゼリグは大衆に応えて変身するが、大衆もまた大衆のままカメレオンマンに応えて無意識に変身してしまう。

実はゼリグが周辺環境に対して変身しているのではなく、大衆がゼリグに対して変身を繰り返しているのだという奇妙な視点が発見できる。

 

大衆の変身によりゼリグは運命に翻弄され苦悩することになる。

大衆はマスコミの影響を受けて、あるときはゼリグに関心を寄せ、賞賛し、同情する。しかし、ゼリグの行状によってあっという間に非難する側に周りゼリグを社会の寵児から転落させ、追い払い失踪へと追いやる。大衆はものの見事に一色化して変身を遂げる。

 

それはゼリグのカメレオンマンとしての一個人の変身能力よりも遥かに無数で大規模に変身を遂げるのだ。大衆に追われて失踪したゼリグはローマ法王庁に同化し、更に1933年のドイツに行きナチスに同化する。

ユダヤ人がローマカトリックやナチスに化けてしまうという辺りはアレンらしいアイロニーであり、ユダヤ人が常に置かれている立場をよく示しているものだ。

 

劇 中で、識者が登場し、ゼリグにとって画一化されたナチスは最も同化するのに適した環境だったと語られる。ナチスに同化したゼリグは主治医であり恋人でもあ る精神科医ユードラ・フレッチャー(ミア・ファロー)に発見され、ゼリグはユードラと共にナチスドイツから曲芸飛行さながらに奪った軍用機で脱出、アメリ カへ帰還する。

大衆は自分たちが追い払ったゼリグを再び時代の寵児、英雄として祭り上げる。

 

ニューヨーク市内を凱旋パレードを行うゼリグ。

 

このラストシーンからアレンの声が聞こえてくるかの様だ。

「カメレオンマンのゼリグなんて目じゃないよ。いちばん主体性がなく流動的なカメレオンマンは今、この映画を観ているあんたたち大衆そのものなんだ。」と。

 

『カメレオンマン』はユダヤ人とは何かという事をコメディという形で表した様に見せかけながら、実は痛烈な大衆批判を行う映画である。

 

その中心は資本主義社会のアメリカの大衆であり、マスコミであり、またはキリスト教中心主義のローマカトリックの大衆であり、または全体主義のナチズムの大衆である。

 

ゼリグの周辺には絶えず切れることなく大衆が存在し、それはゼリグ同様、見事に自らを守ろうとカメレオンとなって変身を繰り返す。画一化されながら。

 

カメレオンマンとしての大衆が与える社会的影響の大きさとその害毒をアレンは捉えて止まない。

 

なるほど、やはり、ウッディ・アレンとはまさに天才の器を持った社会派映画作家であることは間違いない。