講談社の零戦(零式艦上戦闘機)のプラモデル付きの分冊百科シリーズの広告である。このシリーズは刊行が開始された際には宮崎駿のアニメ映画『風立ちぬ』を利用していた。

曰く「『風立ちぬ』の零戦」云々である。『風立ちぬ』の公開が終わると今度は上映中の映画『永遠の0』とタイアップを始めたという訳だ。この様なタイアップは特に珍しいものではない。

漫画『はだしのゲン』が「少年ジャンプ」に連載されていた時にも戦車や軍艦のプラモデルの広告が同時に掲載されていたという事実もある。

作品の内容とは関係なく戦争を取り扱っているというだけで戦争文化、ホビー商品をそこに関連付け、商品の販売促進を行うという事は繰り返し行われてきたことである。

 

例 えばジャック・スマイト監督の『ミッドウェイ』が公開されたとき、米国のプラモデルメーカーであるモノグラムの日本代理店は「ミッドウェイ海戦参戦機を集 めよう!」という広告を早々と打っていた事が思い出される。スティーヴン・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』が公開されるとホビーメーカーの 東京マルイ社が電動式のエアソフトガンで劇中トム・ハンクスが使用してたトンプソン・サブマシンガンを発売する。

戦争映画ではないがドン・シーゲル監督の『ダーティ・ハリー』が人気を博せばモデルガンメーカーはハリーの愛銃、S&W44マグナム拳銃を関連付けて発売する。

 

映画作品におけるこれら武器や兵器の持つ意味と製品のベクトルは全く違う次元のものであっても商業的価値としてホビーメーカーや出版社は好機とばかり利用する。

 

私はこうしたことに目くじらを立てて問題視しようなどとは思わない。

なぜならこうした事象はごく限られたユーザー、つまりはマニアとかファンであるとかそうした好事家に向けられていたものであり、また映画製作者が望んだことでもないからだ。しかし、昨今はこうした事象を問題視することなく避けることが出来なくなってきた。

 

それは公開される反戦映画にコミットしてホビーメーカーや出版社が狭い範囲での好事家だけを対象にするのではなく、一般大衆に向けて商品の販売を行うようになってきたからである。

最 も顕著な例が、先に挙げた講談社の広告の如き分冊百科シリーズである。分冊百科はこれまで戦争文化に関するものはそうは多くはなかった。以前は自動車、バ イク、航空機などのミニチュアモデルの取り扱いが多く、軍用機、戦車、自衛隊の兵器などを繁盛に取り扱うようになってきたのはここ数年の出来事である。

 

最近ではミニチュアモデル付きの分冊百科の軍事色はかなり強くなってきている。

公式発売には至らずテスト販売だけに終わったようだがアシェット・コレクションズ・ジャパンの『日本陸海軍徽章コレクション』というものまで登場した位だ。

同時にマニア向け本ではなく、ビギナー向けのミリタリー本が書店に数多く並ぶようになったのもここ数年の現象である。

 

私は何度も書いてきたが分冊百科や一般雑誌で軍事ものを扱うことは大変危険であると考えている。

軍 事オタクは軍事に対して免疫がある。彼らは軍事に関する武器や兵器に魅せられているある種の変人として扱われてきている。その中で彼らは自らをアウトサイ ダーであることを認めている。その上、武器や兵器を取り巻く戦争というものの本質について、それに全く興味を持たない一般大衆よりもよりよく知っているの である。

 

しかし、戦争について何ら興味を持たない、あるいは深く知ろうとして来なかった一般大衆に零戦や大和をポンと手渡しすることは、武器や兵器が持つ潜在的なヒロイックな部分だけを無批判に引き出して与えてしまうことになりかねないのだ。

 

こうした分冊百科をはじめとする雑誌やホビーの映画とのタイアップは宮崎駿のアニメ映画『風立ちぬ』から非常に激しくなったように感じる。

『風立ちぬ』公開前から零戦関係の本が数多く書店に立ち並ぶようになった。

実際には零戦など殆ど本編に登場しないにも関わらず『風立ちぬ』と言えば零戦となる。

この現象はジブリの映画の売り込み方とその周辺に起きた便乗出版がかなり影響している。

 

私 は映画『風立ちぬ』を検証して、非常に緻密に計算された反戦映画であり反ファシズム映画であると結論づけているが、こうした映画周辺の現状を見ればそれが 正当であるとは誰にも思えないのではないかとさえ感じる。実際、映画評論など見てみると評論家たちでさえもが「零戦を礼賛するとはけしからん」と批判して いる始末である。

映画を取り巻く世界が評論家の目までも曇らせてしまうのだ。

『風立ちぬ』関連で出版された雑誌や本の中には 宮崎駿を含め映画製作側もこれにコミットしている例も見受けられる。それどころかジブリ自体も自社製品として映画に登場する九試単座戦闘機(零戦の前身と なる九六式艦上戦闘機の試作型)のマスコットやキーホルダーを発売している始末なのだ。

 

映画のベクトルとは全く違っているこうした商業戦略は映画自体の価値も下げかねない。

いや、それどころではない。映画自身も映画の主題とは別のベクトルへ導く起爆剤となって爆発し続けるのだ。

 

少し考えてみよう。

山本薩夫監督の『真空地帯』や『戦争と人間』が公開された時点で映画に関連付けて日本陸軍の兵器を紹介した雑誌や本が出版されるだろうか。山本監督が自らその出版に参加するだろうか。三八式歩兵銃のキーホルダーやマスコットが一般大衆向けに発売されるだろうか。

 

軍 事オタクではなく、一般大衆向けに武器や兵器の抽出された情報を与えようとする出版社、それに加担してしまう反戦映画の映画製作者や映画産業。利益を上げ るためには映画の本質は無視しても良い。主題を踏みにじっても良いというあからさまな暴挙が眼前で展開しているのである。

 

これでは日本映画の心は完全に死滅してしまうだろう。

 

私たちはこの場に及んでも何ら気にはしていない様だが、既に常軌を逸した状態が映画とその取り巻く周辺では起こっているということを我々は今一度立ち止まって認識しなければならないのだ。


執筆:永田喜嗣