あとがきにオタク評論家の唐沢俊一氏が次のように書いている。
「僕など、こういう国粋的な思想とは最も遠いところにいる人間のはずなのだが、読んでいるうちに知らず知らずケンペーくんの活躍に拍手をおくり、痛快な気分に浸っている自分に気がつき、ハッとするのである。たぶん、他の読者も同様だろう。」
作者のならやたかし氏は漫画家志望だったが志を断念し官能小説の作家になった人。その道では知られたミリタリー・オタクだそうだ。漫画への情熱が断ち切れずこの作品を描いた。それがカルト化して現在でもファンがいるらしい。
作者には失礼だが漫画というには恐ろしく絵がマズイ。しかし、異様なテンションがあって引き込まれる。
内
容は日本の腐敗を憂う下曽根内閣総理大臣が右翼の長老に相談して、やはり憲兵や特高が必要だろうというアドバイスを受ける。下曽根は過去の記録を調べ上
げ、戦後占領軍に家族を殺され抵抗して射殺された超エリート憲兵、東京憲兵隊の南部十四郎憲兵大尉の資料を見つけ出し、降霊術によって南部憲兵大尉を蘇ら
せる。
南部大尉は現代の世相を調べ上げ単身、世直しを決意する。
暴走族、銀行強盗、酒とセックスに溺れる大学生、暴力教師、アメリカの不良外人らを相手に軍刀、拳銃、機関銃、果ては戦闘機や爆撃機まで使って殺しまくるというグロテスクな物語。斬殺シーンや射殺シーンは残酷な描写でちょっと僕にはキツイ。
なぜ、どちらかといえば革新の立場である唐沢氏があとがきに上記の言葉を残したのか不思議であった。
考
えるに憲兵や特高と庶民の立場がここでは逆転している(様に見える)のであって、一人でテンパって日本の秩序を取り戻そうとしている南部憲兵大尉がユーモ
ラスでエキセントリックだからだろう。ここでは彼は孤立したマイノリティだからだ。その妙が人に面白さを感じさせるのかもしれない。
社会から捨てられた「クズ」たちが国家権力に乗っかりながらも、自ら死刑執行人となって巨悪に立ち向かう望月三起也の『ワイルド7』のメンバーたちとはまた違う。
南部大尉の活動はヴォランティアであり、彼は最初から時代に遅れたファシズムの化石となったエリートなのだ。
この漫画を読む人が爽快感を覚えるとしたらそれは単なる自分が抑えることができない日常の不満や憎悪へのハケ口でしかない。
何故なら我々は南部大尉を必要としないほどに周辺には「ケンペーくん」が存在しているはずだから。
唐沢氏はあとがきの最後を下記のように結んでいる。
「人
間は自由を欲する生き物である。しかし、制限のない自由というのは人を不安にすることもまた事実なのだ。われわれは潜在意識のどこかで、密かに自分たちの
暴走を規制してくれる人物を求めている。ケンペーくんが熱烈なファンを獲得しているのはそのためではないかと考えるのである。」
一見、成程と思わせるが「制限のない自由というのは人を不安にする」そんな「自由からの逃走」を必要とするほど我々は決して自由ではない。
南部憲兵大尉が存在した時代と現在の自由はほとんど差はないのかもしれない。
われわれは生きている限り籠の鳥であることにはなんら変わらない。
緩やかな弾圧は抵抗を呼ばない。
ナチのラインハルト・ハイドリッヒにチェコの被支配国民の多数が抵抗しなかった様に。
むしろ、われわれが『ケンペーくん』に爽快感や拍手を贈りたくなるのだとすれば、それは他者の立場を認めない排他的で歪んだ「不寛容さ」といったものに起因しているのではないか?
昨今のネット右翼や排外主義者の心理も恐らくこれと同様のものなのではないか思えてならない。
そう感じさせる一冊だった。