1954年から延々と続いた『ゴジラ』を初めとする東宝SF怪獣映画の中でも未だに熱狂的なファンが少なくない作品。それは海底軍艦と呼ばれる超兵器、轟天号というメカニックな存在に因るところが大きい。

今更、この映画について語る必要なないかもしれない。映画ファンや評論家から語り尽くされた感があるが、ここではちょっと違った視点から『海底軍艦』を見てみることにしたい。

 

この映画の原作は明治33年に出版された小説家、押川春浪の筆による少年向け海洋冒険軍事小説『海島冒険奇譚・海底軍艦』である。原作についての詳細を語るのは別の機会にゆずるとして、内容を簡単に説明しておこう・

イ タリアに外遊中だった主人公の「私」とひょんなことから知り合った日出男少年とが、日本へ帰る船旅の途中、「海賊船」の襲撃を受けて船は沈没、漂流の後に 絶海の孤島へ流れ着く。そこには密命をおびて7人の部下を引き連れ密かに日本を脱出した帝国海軍の桜木大佐たちがいた。桜木大佐はこの島で世界最強の水中 戦闘艇、海底軍艦ともいうべき潜水艦「電光号」を建造していた。桜木たちに保護された「私」と日出男少年は、この世界最強の潜水艦「電光号」を見ることに なる。島内での冒険などがあって、最後には主人公たちは帝国海軍の戦艦「日の出丸」に乗船、日本へ向かう。

その途上インド洋で、7隻の「海 賊船」の待ち伏せにあう。「海賊船」は大日本帝国海軍の桜木大佐が秘密裏に開発した新型潜水艦「海底軍艦・電光号」の存在を察知しており、それを引き渡せ と要求する。その時、桜木大佐が艦長として電光号が到着、電光号と日の出丸は海賊船7隻と真っ向戦い、海賊船を全て撃退するのだ。

ここに表されている「海賊船」とは大英帝国の海軍だと考えられる。この小説が書かれた1900年はまだ日英同盟は結ばれていなかった。

いずれにしてもたいへん国粋主義的な軍事冒険小説である。

 

映 画化は50年も前の作品だが、ここにも「戦後の国防」と「戦前および戦時下の国防」との深い結び付きを見て取れる。私が参加しているフリー・ペーパー同人 誌『ほるもん人』でも連載させていただいている『ゴジラの沈黙~東宝SF怪獣映画における戦後国防史』の第一回目で、怪獣映画における国防体制が如何に大 日本帝国のそれと結びついているかを書いた。1963年の時点でもその路線は全く崩れてはいなかった。

本編監督:本多猪四郎 特撮監督:円谷英二という陣容も『ゴジラ』(1954年)以来、同じ陣容である。

当 時、東宝SF特撮怪獣映画の脚本に当たっていたのは関沢新一と木村武(後の馬淵薫)である。木村武は共産党出身の思想運動家から映画の脚本家に転身した人 物で、彼が書いた作品には怪獣や宇宙人への眼差しは支配や抑圧に曝さられるマイノリティとしていつも向けられていた。良く、木村脚本がペシミスティックで あると評されるのは彼にはそうした社会思想が根底にあったのだ。(この当たりはノートの『ガス人間第一号』の項で書いた覚えがある)。対する関沢新一は関 西生まれで映画のセリフは「掛け合い漫才である」と自ら語る社会問題や政治思想とは程遠い娯楽映画作品の作家だった。安保体制を鋭く批判した中村真一郎、 福永武彦、堀田善衛共著の 野心作『発光妖精とモスラ』を原作にした映画『モスラ』の脚色に当たっても関沢新一はそうした政治的な要素をさらりと交わして良い意味で「観客に考えさせ ない」ものに仕上げた。もちろんそれは、製作者田中友幸の意向も汲んでのことだっただろう。『海底軍艦』を脚色したのは関沢新一である。だから、まず、木 村武の様に政治社会性はここには存在しない。怪獣や宇宙人にはそれなりの「論理」があるとは捉えない。そこが関沢脚本の東宝のキャッツフレーズ「明るく楽 しい東宝映画」とズレのない特徴だ。

 

しかし、『海底軍艦』の映画化は原作通りではなく、現代を舞台に置き換えるのだからそ の改編は少々困難だったろう。原作と違い、現代では大日本帝国海軍は存在しない。そこで、原作の桜木大佐に当たる神宮寺大佐(田崎潤)が終戦の日、イ号 403大型潜水艦で日本を脱出し、南海の孤島で大日本帝国海軍の再建のために超兵器『海底軍艦・轟天号』を建造しているという設定に変えられている。原作 の敵、「海賊船団」は何万年も前に海底に没したムー大陸の生き残りたちが地熱を利用して築いた地下帝国、ムー帝国を設定している。海賊船団が大英帝国の艦 隊だとすればそれは植民地政策によって拡張する帝国の尖兵だ。ムー帝国も劇中の人類への声明で「地上は偉大なるムー帝国の植民地となるのだ!」と言ってい るので大英帝国とすり変えるには相応しいと言えるだろう。

 

しかし、ここに問題が発生する。

軽妙に展開するストーリーに観客は見過ごしてしまうかもしれないが、『海底軍艦』はそれまでの東宝SF特撮怪獣映画とは全く違った特徴を持っていた。それは人類に敵対する者が怪獣でも宇宙人でもなく、「人間」だということである。

ムー帝国人は人類なのだ。

彼らは劇中でまるで古代エジプト文明の人の様に描かれている。

超 文明を持っているが、我々の文明に比べればかなり未開の人びとの様だ。巨大な海竜マンダを守護神として崇めるアミニズムに支配され、卑弥呼やクレオパトラ を思わせるような女王を戴いている。未開の伝統と超文明を併せ持った「野蛮人」ムー帝国人。地上の人類とは乖離が激しいがムー帝国人とて人類の一員、人間 なのである。

 

『ゴジラの沈黙~東宝SF怪獣映画における戦後国防史』でも触れたが、日本の特撮映画は戦時中の国策戦意高揚 映画『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)を起点としている。特技監督はもちろん、特撮の神様と謳われた円谷英二である。本編監督は山本嘉次郎(この人 の愛弟子は本多猪四郎である。)だった。戦後、この二人の国策戦争スペクタクル映画路線は当然消滅して、本多・円谷のタッグで『太平洋の鷲』(1953 年)と『ゴジラ』(1954年)で再出発することになる。以降、特撮映画上では、過去の戦争に対しての国防武力行使は否定、現在と未来の対怪獣、宇宙人へ の戦争では武力行使は肯定という二本の路線で作品は作り続けられた。

 

問題は本作『海底軍艦』である。

この作品は現時点で過去の大日本帝国海軍の武力行使を肯定し、しかも敵は怪獣でも宇宙人でもない人間であったという点である。

図らずも分断化されていた過去と現代の映画上での国防原則による二つの路線はここで矛盾した交差をしてしまったことになる。進めて言うなら禁じ手を見事に「娯楽」の二文字で破ってしまったのだ。

その点を考えれば映画『海底軍艦』は見過ごしてはならない映画であると筆者は思う。

ムー帝国に海底軍艦が最終的な打撃を与える前に降伏勧告をするがムー帝国の女王は拒否する。

ここで、神宮寺大佐の決断はそのまま国連で結ばれた地上人類の決断となる。

 

海底軍艦はムー帝国の心臓部を攻撃し、ついにはその帝国と民族そのものもまで滅亡させてしまうのだ。

あたかも大東亜戦争の意趣返しであるかの様に・・・。

 

よく観れば観るほどにこの映画の不気味さは拭えない。娯楽性というオブラートに包まれていようとも神宮寺大佐の信念は「海底軍艦」を使って別の形(敵)で大日本帝国を再建してしまったことには変わりはないのではないのだろうかと思えてならないのである。

 

 

明治33年刊行の押川春浪の『海島冒険奇譚・海底軍艦』の原作本。