「仕事上のあるプロジェクトについて、今後、それをやったほうがいいかどうか」について同僚と議論を交わし、私はそのプロジェクトをやるのに反対だったのですが、すぐに論破されてしまいました。
私が「俺は、それをやることについては、直観的に嫌な予感しかしない」と言ったところ、「それ、論理性、ゼロですよね」と反論され、そこからこちらがしどろもどろ、不利になっていく展開でした。そりゃ、その程度の理論武装じゃ、当然、負けるわな。我ながら、このエモーショナルな言い分には仰天しました。
帰り道、「物事の真贋や価値を見破ったり、将来の進むべき道を探ったりするのに、自分の直観を当てにしていいものかどうか?」ということを考えていました。
世の中には直観型と理論型がいると思いますが、私の場合は、これまでも直観を当てにしてきたように思います。
将来の進むべき道を探るのは、試験の答案を作るのとは勝手が違います。確かに、試験問題は、なるべく山勘や当てずっぽうで答えちゃいけないことぐらいは、私にも分かります。
秀才ならば、ビッグデータを駆使した論理的な判断を重んじてしまうのでしょうか?
秀才ほど直観に頼ることを蔑みたがるのでしょうか?
理論型の人は、きちんと言語化された説明でなければ納得しません。
試験の答案を作る時の「山勘」と、将来や本質を見抜いたりする時の「直観」は違うんですが、直観を軽視してはならないということを、うまく言語化できなくて、実にモドカシイ!
将来や本質を見抜いたりするときに、山勘を使うわけがありません。真実に到達するための「補助線」として理論を使うことあっても、結局はこれまでの経験則から導き出した直観を使いますよね。(え?使いませんか?あ、そうですか、なら、いいです。)
直観とは経験から導き出された動物的・本能的・生理的な感で、見抜く力をいうのではないでしょうか?
理屈なんてものは、時として、もっともらしいことを言って相手を丸め込むために使われる言葉のトリックでしかないことだってあります。そのトリック(手品)の種や仕掛けを周囲が見破らない限り、手品師は自分のことを魔法使いだを名乗ることができます。
理屈が時として正しくないからといって、それだけの理由で、直観を正しいはずだと思うのは…
やっぱり、論理性はゼロですかね。