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なにか吹っ切れた感じがする。あのとき感じた「意志」は実践されたのだ——7年ぶりの新作長編を読みだしてすぐにそう思った。前作の中編『アフターダー ク』には、深い森から踏みだす決意のような、飛び立つ直前の構えにも似た気配が漂っていた。『1Q84』には、新しい村上春樹がいる。読者は「何かが変 わった」と感じるだろう。その一方、やはり村上ワールドは不変とも思うだろう。
 オウム真理教の問題に向きあい、90年代に2冊のノンフィクショ ンを書いた作者が、事件から14年を経てカルト教団を素材に小説を発表した。舞台はイランイラク戦争が続くバブル以前の1984年。予備校講師をしなが ら小説家を目指す「天吾」と、スポーツジムに勤めながら非道な男たちの殺しを請け負う女性「青豆」2人の視点で交互に語られる。ある少女の暗示的な作品 『空気さなぎ』を元に、危険な替え玉出版が企画された頃から、世界は変調をきたしていく。実在とおぼしき宗教団体や農業コミューン、家庭内暴力のための シェルター、性描写も盛りこまれ、しかもパラレルワールドの仕掛けがあって、どこまでも飽きさせない。娯楽性も最も高いと言えるだろう。他方、これは「家 をなくした子ら」の物語でもあり、書く(書き換える)ことと記憶と再生を巡るモチーフを布(し)き、オーウェルの『1984』的な思想統制の恐怖と根源悪 を追究した反ディストピア小説でもある。現実と虚構は境をなくし、因果関係が反転する。作者の扱ってきたテーマがぎっしりの力作だ。
 色々な人の 視線とパースペクティブと世界観が絡みあうドストエフスキー的な小説を書きたい、それには三人称で書く必要がある、と近年の村上春樹は語ってきた。予告通 り、本書は初の完全な三人称長編だ。なぜ作者が長らく一人称一視点の文体を多用したかと言えば、その形式でしか表現できない精神があったから。そこには全 体を見通せないことの憂鬱(ゆううつ)が書きこまれ、いわば「視野狭窄(きょうさく)」の不安感が物語の牽引(けんいん)力の一つとなっていた。一人称の 可能性を駆使しながら、しかし村上春樹は三人称多視点の小説へ確実に近づいている観があった。人称と視点の変化は、作品の精神の変化を意味する。
  そうして周到に書かれたろう『1Q84』は、「メランコリーの繭」とその温(ぬく)もりから抜けだした印象がある。淀(よど)みない筆致は各主題の掘り下 げを潔く読者に委ねているようにも見える。主人公たちは教団リーダーの意思をも超えた根源悪に対する抗体として描かれるが、しかし敬虔(けいけん)な信仰 とカルト的狂信の境界が極めて曖昧(あいまい)なように、人のいかなる信念にも狂気の影はつきまとう。ならば、「あなたのあり方自体が宗教だ」と教団リー ダーに言わせるほど信念に揺らぎのない青豆と彼女が加担する「殺人グループ」にも、カルトの匂(にお)いが感じられはしまいか。
 三人称の導入が 「色々な人の世界観」を引き入れ、人々の視点と多声が交わり響きあう小説となり得ていれば、信心と狂気、善と悪、夢とうつつの相対関係を当事者外の目でも 浮かびあがらせ、主題を個人の秤(はかり)だけに載せず、さらに多角的に描くことも可能だったろう。よく見れば、本作は一人称にほぼ変換可能な三人称一視 点の並置で概(おおむ)ね書かれている。その点では、文体の基本構造は既作にも見られるものであり、変わったのは大方(おおかた)、人称だけで視点ではな い。とはいえ、このあたりがまた「村上節」を堪能できる部分でもあるのだ。それにしても、未回収に終わる謎と伏線がずいぶん多いが、もしや第三巻以降が出 るのでは?
 しかし続きがなくても、それはそれで作者の姿勢を鮮やかに表明するものではないか。作中、天吾の言葉 にもある通り、読者が最後まで疑 問の中に置かれるなら、それは「著者の意図したこと」なのだろう。本作には、書かれた物語と書かれなかった物語が同じぐらい豊潤に含まれている。読み手の 中でいつまでも「書き直して 」いける作品、それこそが傑作の名に値するのだ。
 メランコリーの夜は明けた。