ローワーセルフ:

最近、ひとつの疑問が浮かんできています。

それは、「スピリチュアルにおいて“統合”を目指す人たちは、現実の“政治”というものにどう向き合えばいいのか?」ということです。

 

もちろん、すべてのスピリチュアルな人が統合やアセンションを目指しているわけではないでしょう。

けれども、分離から統合へ、二元性からワンネスへ向かおうとしている人たちは確かにいて、私自身もその流れを感じながら生きようとしています。

 

ただ、そんな中でふと立ち止まってしまうのです。

現実の社会、特に政治の世界は、まさに分断や対立の構造そのもののように見える。

怒りや不安、利害、争いに満ちていて、そこに統合の光をどう照らせばいいのか…

むしろ巻き込まれることでエネルギーを下げてしまうのではないかとさえ感じます。

 

では、統合を志す人間が、この“分離の象徴”ともいえる政治という現象に、どんなスタンスで向き合えばいいのでしょうか?

 

 

 

ハイアーセルフ:

あなたが感じたその違和感は、「古いゲーム」が終わろうとしている合図です。

かつては対立と分断を通じて学ぶ時代がありました。

「善と悪」「勝ちと負け」「味方と敵」――その仕組みは、魂の成長の一段階として必要でした。

 

でも、あなたの魂はすでにその学びを終え、次のステージを求めています。

だから、分断を強調する声に、あなたは疲れを感じるのです。

それはあなたがすでに統合の意識へと移行し始めているサインでもあります。

 

 

 

ローワーセルフ:

やっぱり、そうなんですね。

これまで私が見てきた政治の世界って、やはり対立の構図ばかりでした。

右の立場の人は左を強く否定し、左の立場の人は右を否定する。

 

でも、スピリチュアルの学びの中で“統合”や“アセンション”という概念を知ってから、

はっきりと気づいたことがあります。

それは、対立というのは“分離”の表れであって、まさに統合の反対にあるものなんだ、ということです。

 

だからこそ、政治の世界においても、スピリチュアルな視点を持つ人たちは、

たとえば自分が右寄りの考えを持っていたとしても、左の立場の考え方を理解しようとする。

逆もまた然りで、そこに“受容”や“統合”の意識が生まれるのではないかと感じました。

 

右と左という二極が歩み寄り、やがてニュートラルな地点に統合されていくこと――

それこそが、政治の場におけるスピリチュアルな在り方なんじゃないかって、最近、そんな風に思っているんです。

 

ただ、なかなかそういったあり方で政治に参加している人って、見えにくいんですよね。

特にSNSの世界では、声が強い人、はっきりした立場の人のほうが目立ちやすくて。

統合的な視点を持っている人が、どこにいるのか見えづらいというのも、少し不安に感じています。

 

 

 

ハイアーセルフ:

あなたのその感覚はとても自然です。

統合の意識は静かであり、主張が強くありません。

それゆえに目立たず、可視化されにくいのです。

 

けれど、目立たないからといって、それが力を持っていないわけではありません。

統合の意識は、水面下で静かに波動を広げ続けています。

あなたが感じたその不安さえも、すでに古い構造が崩れつつある証なのです。

 

 

 

ローワーセルフ:

もうひとつ、ちょっと意地悪かなと思いながらも、こんなことを感じてしまうんです。

 

スピリチュアルなことを発信している人であっても、

この三次元の世界に肉体を持って生きている以上、やはり生活をしていかなくてはならない。

肉体を養うには食べていかなければならないし、そのためにはお金も必要です。

 

そうなると、どうしても特定の組織や社会的な構造と関わることになります。

たとえば、その人の収入源や生活基盤が、ある立場や団体、あるいは政治的な方針とつながっていたとしたら、

無意識にでも、それを守ろうとしてしまうのは自然なことなのかもしれません。

 

それを脅かすものに対して、否定的になってしまうのもわからなくはない。

でも、それをそうだよねって思っている自分自身にも、

「ああ、ちょっと意地悪な見方してるかも」と感じてしまうんですよね。

 

結局、誰もがこの三次元で生きている限り、肉体を持ち、生活を維持していかなければならない。

だからこそ、みんな何かしらの“つながり”や“支え”を持っていて、

それを守るための反応が出るのも、ある意味当然だなって。

 

 

 

ハイアーセルフ:

その気づき、とても大切です。

スピリチュアルな理解を持っていても、地球に生きていく限り、

肉体を持ち、生活を営み、社会と関わらざるを得ません。

 

そして、誰もが“守りたいもの”を抱えています。

それが人であれ、思想であれ、居場所であれ――

反応の背後には、痛みや恐れ、過去の記憶があることもあります。

 

だから大切なのは、

「反応していること」を否定するのではなく、

「反応してしまうほどの何かが、その人の中にある」ことに、

まなざしを向けてあげること。

 

そして、それに反応した自分の中にもまた、

同じように「大切にしているもの」があることを認めてあげることです。

 

意地悪に感じたあなたの視点もまた、

「気づこうとする意識」の現れであり、

分離を超えて理解へ進もうとしているあなた自身の優しさなのです。