最近の私はかつての中央公論社から発売されていた「世界の名著」シリーズをよく買っています。

 

「世界の名著」シリーズとは、西洋古典から東洋思想、レーニンや毛沢東といった反資本主義的焚書候補著作物まで、哲学・宗教・政治・文学を幅広く収録した作品群であり、こういった全集モノは売上の見込みがたたず、あまりお金にならないので今後似たような商品が出てこないであろうことから、Amazonでお安くなっていた際は積極的に購入するようにしています。

 

「世界の名著」シリーズの圧倒的魅力として、各巻の冒頭に翻訳者によるあまりにも分かりやすい解説が載っていることが挙げられます、これ目当てに買ってもいいくらいです。新書なる商品形態が発明されたことによって、現代の我々は気軽に古典を要約したエッセンスに触れることができるようになりました。しかし、「本の厚みが薄い=中身が分かりやすい」ということは全くなく、ちくま新書の○○入門シリーズを買ってはみたものの、なんだかよくわからなかったということが若いころの私にはよくありました。今回、批判しようと考えている世界の名著2巻『大乗仏典』についても、その解説は大変明瞭であり、仏教の歴史を大雑把に学ぶことができてとても勉強になりました。絶版になっている古い本だから難しい文体で書かれているというのは誤った思いこみであり、それを理由に昔に出版された本を避けるというのはもったいないことだと思います。ただ、光文社古典新訳文庫シリーズが読みやすいのもまた事実ですし、岩波文庫のアレやコレが分かりづらい翻訳をして古い本に対する忌避感を醸成していることもまた事実だと思います。

 

なんといっても「世界の名著」シリーズの強みはそのコストパフォーマンスです。名作古典が老眼には読み取れない小さな文字でびっちり600ページほど詰め込まれているわけですから、その文量は圧倒的と言えるでしょう。大人気のショーペンハウアーでこそ2500円という定価越えの価格がついてはおりますが、ストア哲学の代表的な作品が集積された14巻『キケロ エピクテトス マルクス・アウレリウス』は送料込みで700円。中華思想の大家、4巻『老子/荘子』、人生訓と言ったらコレ!の19巻『モンテーニュ』、もだいたいこのあたりの価格帯で買えるわけですから、これは驚くべきことです。解説を読んで気になった作品をつまみ食いするだけだとしてもこの値段は十分に安いと言えますし、スカスカの本棚を埋めてくれるエースとしても活躍が望めます。

 

さて、ここからは本題。世界の名著2巻『大乗仏典』について触れていきたいと思います。私はこのシリーズのおかげで諸子百家やキリスト教といったメジャーどころの思想についておおむね理解することができたので、次は仏教だろと半ば思いあがった態度で『大乗仏典』に挑んだわけですが、結論から申し上げますとこれは大失敗でした。いつもどおり、その分かりやすい解説で知った気になって本編を読んだらものの見事に撃沈しました。私はこの時初めて気がついたのです、「すべての本が理解されようと思って書かれているわけではない」ということに。

 

私は解説を読んだ時点で疑ってかかるべきでした。仏教の創始者たるゴータマ・シッダールタ(釈迦,ブッダ)はその知識や教えを口承(口頭、口伝え)によって弟子や信者に伝えたのであって、一切の著作物を残しませんでした。その理由は相手によって口調や話の流れを変えないと自分の意図を伝えることは難しいと彼が考えただけではなく、説法することそれ自体を無駄な努力であり、聖なる法をそれにふさわしくない方法で取り扱うことになってしまうリスクがあると思ったからだとされています。なぜなら、我欲・愛欲・執着によって盲目になっている人々が理解するにはその法はあまりにも深く、あまりにも微妙なものであったからです。答えることが相手をさらに迷わせることになるからという理由で沈黙を守ることもしばしばあったそうです。

 

だったら、どうしてお経(仏典)なんてものが存在しているんだ?という疑問が当然湧いてくるものですが、これは弟子たちの口伝を通じて後世にまとめられたものであり、ブッダが望んで作られたものではありませんでした。ブッダの存命中にはすでに教団内で分派(派閥形成)の動きがすでにあったとのことでした。つまり、仏典が産み出された背景には自分たちの所属する派閥こそがブッダの思想を正当に受け継いでいるという虚栄、プロパカンダがあったものと考えてよいと思います。ブッダの死後、上座部(=長老派)"戒律に厳格で、修行中心の保守的仏教"と大衆部"在家信者ありきのブッダを神格化した宗教"に教団が分裂していることからも、仏典による権威付けを各宗派が必要としていたのではないでしょうか?そして、対立する相手がいるということは相手方に容易に論破されてしまうような仏典では困ります、だからこそどうにでも解釈できるような曖昧でふわふわした経典が量産される運びとなったのではないかと私は考えております。

 

そんな経緯で書かれたものだから、私にはまったく理解ができなかったのだと思います。それは果たして私の自己正当化でしょうか?自分が分からなかったことが悔しいから適当な理由をでっちあげているだけなのでしょうか?データで考えてみますと、世界人口全体の約5〜6%、つまり約4〜5億人が仏教徒であると考えられております。もっとも、日本人のように宗教意識が薄いまま仏教を習慣として続けている人たちをカウントするかどうかは調査機関によって異なってくるため、この値を厳密なものと考えることはできません。ただ、信者数の規模を順位付けしますと、キリスト教(世界人口の約30%)>イスラム教(約25%)>ヒンドゥー教(約15%)>仏教(約5〜6%)となり、ちょっと物足りない気分になります。すべての宗教は理不尽の神格化であり、人生における苦痛をどのように克服するのかという各地域ごとにおける伝統や風俗であるわけですから、東アジアの人口が世界全体の人口に対して約20%を占めていることを考慮すると、もっとたくさんの仏教徒がいてもいいように思いませんか?私としてはつい、分かりづらいから愛されないのではないかと勘繰ってしまいます。他の宗教と比べると言語化の能力が低いことを深淵だとか難解といった言葉で誤魔化すのは辞めにしませんか?

 

最後にこれまで仏教を批判してきた罪滅ぼしとして『宝積経』より、私が感銘を受けた一節を紹介して終わりにします。すべての経典がこんな感じで分かりやすかったならば、どれほどよかったことか。

 

「欲望を条件として身体への執着がある。身体への執着の条件として生存がある。生存を条件として誕生がある。誕生を条件として老、死、苦悩、悲嘆、苦、憂悩、惑乱が起こってくる。このようにまったく苦悩のみのこの大きなかたまりが、集まり起こるのである」

「欲望が寂滅することによって身体への執着が寂滅する。身体への執着が寂滅することによって生存が寂滅する。生存が寂滅することによって誕生が寂滅する。誕生が寂滅することによって老、死、苦悩、悲嘆、苦、憂悩、惑乱が寂滅する。このようにしてまったく苦悩のみのこの大きなかたまりが寂滅する」

 

前の部分を端折ってはいますが、どちらも欲望がスタート地点であることは変わりません。上の文章だけを見ると、欲望さえなくなれば人生の苦痛が解決すると一見思われますが、仏教には「中道」という概念がありますからそうはいきません。面倒なことに「欲望がない」という状態を実現するには「欲望がある」状態が必要であり相互依存的なものなのです。

 

この思想を理解するためには「縁起」という概念を前提知識として把握していないといけません(これが仏教の本当に悪いところ!)。縁起とはすべての存在は自分が自立して存在するものではなく、必ず他に縁り、他を縁として、他との相対性によって存在しているということです。"東"が存在するためには"西"が存在しなくてはならず、"大"が存在するためには"小"が存在していないといけないし、"父"が存在するためには"子"の存在が不可欠なのです。

 

ここで話が戻ってきます。「欲望がない」という状態を実現するには「欲望がある」状態が必要であり、「苦痛がない」という状態を実現するには「苦痛がある」状態が必要なのです。「苦痛を取り除く」という表現には「あらかじめ苦痛が存在していないといけない」という前提条件があります。病気が治ったという喜びを感じるためには一度、病気にならないといけないことと同じです。

 

だから、自分の人生が辛いからといって絶望することはありません。苦痛を味わっているということは苦痛から解放されるということの必要条件であるからです。同様に人生が順風満帆だからといって油断してはいけません、恵まれているという状態は失うことへの伏線となっているからです。こういう風に考えられるようになると自分の今の気分に応じてつまらないことに惑わされるリスクがさがり、執着を捨てることができる第一歩となるのではないでしょうか?執着を捨てれば捨てるほど、理性に基づいた冷静な判断ができるようになります、そういった力を私は養いたい。