壁∥ω・)∩ シングルママの救世主 水谷 晶 「あきら」 -112ページ目

壁∥ω・)∩ シングルママの救世主 水谷 晶 「あきら」

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付き人からドリフ入り
1950年、志村憲司・和子の三男として東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)に生まれ、厳格な家庭に育つ。本名の「康徳」は、父親が徳川家康を崇敬していたことにちなみ、頭の「徳」と尻の「康」をとり、逆さにした。芸名の「けん」は、父親の名前「憲司」に由来する。



幼い頃、厳格な父親の支配する家庭はいつも重苦しい雰囲気に包まれていたが、当時まだ珍しかったテレビのお笑い番組で漫才や落語を見ていた時だけは、嫌な気持ちを忘れることができた。その時だけは、厳格な父親も笑いをこらえながらテレビを見ていたという。そのような体験から、お笑い芸人の世界に憧れを抱くようになった。



東村山第二中学校時代は文化祭でよくコントをしていたといい、所ジョージ(隣市・埼玉県所沢市出身)の遠戚とバンドを組んだこともあった。中学の頃から、将来はお笑いで仕事をやっていくことを決心したという。その後、東京都立久留米高等学校に進学し、同高ではサッカー部にGKとして在籍した。



1968年、卒業間際にザ・ドリフターズの付き人になった。この際、リーダーのいかりや長介が志村を強引に東北地方巡業へ付き合わせたため、出席日数が足りなくなり中退の扱いにされてしまったと言われる。2007年3月のブログでは、高校3年当時2月に付き人になり、3月の卒業式には参加したことを述べている


初めは由利徹の弟子になろうとした。ついでコント55号かドリフのどちらに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選び、1968年の2月にいかりやの家へ直接押しかけ、雪の降る中を夜中にいかりや本人が帰って来るまで12時間ほど待ち続けた。1週間後にいかりやから弟子入りを認められ、ドリフの付き人となる。当時のドリフは積極的に音楽活動を行っていたため、仲間内では「付き人」ではなく「バンドボーイ」(通称ボーヤ)と呼ばれていた。


加藤茶の付き人となるが、1年余りで一度脱走し、バーテンダーなどのアルバイトをしたりしていた。戻ってくる時はいかりやの家に行きにくかったので、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、「2度も弟子入りするやつはよくよく好きなんだろう」と、出戻りを認めてくれた。その後、しばらく加藤の付き人兼加藤家居候となる。志村は運転免許を持っていないため、無名の付き人だったにもかかわらず、当時国民的人気者の加藤が運転する車の助手席にふんぞりかえったまま、帰宅。加藤を差し置いて母親に晩御飯を用意してもらったり、先に風呂に入ったりという大物ぶりを発揮していた。


1972年、22歳の時に井山淳とお笑いコンビ・マックボンボンを結成し、芸能界デビュー。井山のボケに対して、志村が立ったままの姿勢から足で顔面にツッコミを入れるなど、身体を張ったネタを披露し、歌謡ショーの前座で人気を獲得していく。10月には早くもコンビの名前を冠したテレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』(『シャボン玉ホリデー』の後番組で、後に『シャボン玉ボンボン』に改題)に出演が決まり、幸運なテレビデビューとなるが、知名度の低さ、ネタの少なさもあり人気は低迷(いかりやはテレビのレギュラーが決まる前からその事を危惧していた)。12月31日放送分で番組は打ち切りとなり、この時点で井山が脱退(失踪)。コンビはその後、自衛隊出身の福田正夫を相方に迎え心機一転を図るが、福田はそもそも芸能界志望ではなく、ネタ合わせも全く身が入らない有様で、結局、自然消滅へと向かう(この頃の芸名は「志村健」の表記が多かった。なお「志村健」の芸名は、現在台湾で使用されている)。志村はその後ドリフターズの付き人に戻り、1973年12月、「メンバー見習い」の扱いでドリフに加入する。


1974年3月31日をもって荒井注が脱退し、4月1日に正式にドリフのメンバーとなる。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバーの加入を検討していたが、加藤の推薦により若手の志村が起用された。当時、志村は24歳だった。



「パンくんとの出会いと別れ」


日本テレビの『天才!志村どうぶつ園』は志村けんを伴って、2012年10月にパンくんを訪ね、その模様が2012年12月22日に放送された。トレーナーの宮沢厚が志村にパンくんに会って欲しいと話し、志村も、一般見学者と同様にガラス越しにチンパンジーと対面した。志村はパンくんの住処には入れなかったが、パンくんはしきりに番組で習った技を披露した。「パンくん、ごめんね。褒めてやりたいけど…」と志村は語りかけた。また、「パンくんに子どもができるのを待つしかない」とも語った。帰り道の志村の顔は、安どの表情をしていた。志村は事故に際して、「私達のなかでは パン君 大好き いい子です 放送しなくてもパン君に 会いに行きます」、「そのアシスタントの女性にも 癒しに行きたい 動物は優しいよって 人は動物からどんだけ癒されるか」とも書いている。





志村けんさんって 手本になる生き方をして 周りから天才て呼ばれる方に


志村けんさん 私の憧れの人です