暗い追記の次はここまでで書き忘れたことや、小学生ごろの出来事だけど何歳ごろのことか判らない事などを、つらつら書き足しておきます。
主にTV番組のこと。
〜12歳ごろのわたし。で書いた番組以外に、観ていたものなど。
「まんが日本昔ばなし」
物心つく頃から観ていたような気がします。
実家に、スゴロクがあったらしく親が持ってきたけど、ほぼ記憶にない。
でも、アニメ番組を少人数で回ごとに担当者持ち回りで作るとかって結構面白いなと思います。
声優さんも少なくて一人で何役もされていたり。
「笑点」
「サザエさん」
これは、日曜日の夕方に祖母の家にいる時だけ観られた番組です。
自宅にいるときは父が野球でも観ていたのか?とにかくサザエさん=祖母の家みたいな感じでした。
そう考えると、祖母の家にはかなり頻繁にお世話になっていたのかな。
母が、子どものお世話を祖母に頼っていたのかもしれないと思います。
「ハウス食品・世界名作劇場」
記憶にあるのは「あらいぐまラスカル」くらいからですが、これは再放送のようです。
「フランダースの犬」
(友達が、幼稚園の時に再放送していたと言っていた) 実は当時は知りませんでした。
リアルタイムで観ていたと思われる「小公女セーラ」「愛の若草物語」「小公子セディ」 が一番よく覚えています。
読書好きだった頃なので、原作も読み込んでいることもありました。
そう言えば「秘密の花園」の本もよく読んだけど、アニメにはならなかったのかな?
NHKのアニメ
「ニルスのふしぎな旅」
「名犬ジョリィ」
「太陽の子エステバン」
OPもEDも歌える「ジョリィ」以外は、うろ覚えではありますが、他の二つもタイトルと絵柄、なんとなくの雰囲気は覚えています。
「エステバン」は何かキャラクターのついた折り紙(千代紙)を持っていました。
「未来少年コナン」も、この辺りだったと思うのですが、初回放映が1978年だったとのこと。
再放送で観たのでしょうか?
宮崎駿(ジブリ)アニメの出会いもありました。
もちろん最初は「風の谷のナウシカ」
小学校では給食の時間に放送委員が「お昼の放送」校内放送をして音楽を流したりもしていたのですが、週に一度ほど?、TVでの放送の時がありました。
誰か好きだった人がいたらしく、その放送でナウシカを流されて知ったのですが、なにぶん小学校中学年程度で、放送は切れ切れに一回15分程度だったため、話の内容はサッパリ意味不明でした。
それでも印象には残ったらしく、わたしはナウシカ・ラピュタ・トトロ・魔女宅まで大好きになりました。
4作品まとめての「イメージソング集?」のカセットテープを、買ってもらって(もしかしたら中学に入ってからかもしれません) ピンクのラベルのそのカセットを何度も何度も聴いていました。
本編の中ではBGMになっている曲に、歌詞とタイトル、歌が入っているのです。
歌は主に井上あずみさん。代表的な「風の通り道」などは杉並児童合唱団でした。
その歌を歌えるぐらいには聴き込みました。
前も書いたかもしれませんが、入学前後に母が入院していた経験から、となりのトトロの「おかあさん」と言う、おかあさんへの思いを歌った曲がなんとなく、思い出になっています。
まぁ照れくさかったのか、「♪いつもきれい 微笑んでる」の箇所を「♪いつもこわい 怒ってる」と替え歌して歌ってたりしたな。
あと「さんぽ」は母が私の披露宴で歌ってくれたなぁ。
「(私)が子供の頃好きだった歌なので」と。
もちろんトトロ好きでしたが、そう思われていたのが、ちょっとびっくりしました。
そう言えば「お昼の放送」きっかけだったのか?
「子猫物語」もハマりました。歌が可愛らしいんですよ。
1986年公開らしいです。初めてムックみたいなものを買いました。
カセットテープと言えば、小学校の頃の車移動の家族旅行での旅のお供でした。
音楽(おかあさんといっしょやみんなのうた)以外に、赤ずきんちゃんなどの童話のサウンドブックみたいなテープもよく聴いていました。
髪型のこと。
1年生の時は七五三があって伸ばしてて、2年生ぐらいは、ツインテールしてもらったりしていたかな。
当時は真っ直ぐストレートで、前髪もありました。
高校生ぐらいからくせっ毛が強くなって;
多分3年生で一度おかっぱになって、時々切りながらも、5・6年生はポニーテールか、ポニーテールを三つ編みとかしてもらってました。
母が、髪もずっと切ってくれました。
庭先で切ってもらうのですが、子供の頃は割と結構、耳まで切られて><痛かった思い出があります。
小さい絆創膏つけてたのを覚えてるし、髪を切ってもらうときにビクビクしていました。
ポニテの時、ヘアゴム(ヘアポニー)のボール部分が大きくて5cmくらいあって、水玉模様のスケルトンで、中に小さくてカラフルなチップが入って揺れるやつ、水玉が白いのをよく使ってましたが、赤と青も買い足して、ローテーションで使っていました。
6年の時に好きな子に、しゅっちゅうこの部分を引っ張られるのが嬉しかったりしました。もちろん表向きは「やめて」とか言ってました。
自転車のこと。
私は自転車に乗れたのは、4年生の頃です。遅かったです。
姉のお下がりでそんなによく乗っていたわけではありませんが、パンクした時には自転車屋さんに持っていくとお店のご主人が直してくれたこととか覚えています。
父の自転車の荷台に乗ったことも覚えています。
今の子乗せ台なんてないし、お尻は痛いし、足は広げないと危ないしでかなり疲れるんですよねw
自転車屋さんの近くの牛乳屋さん(駄菓子屋さん)100円でもたくさん買えるので嬉しかったですね。
4〜6年生ごろのスイミングに通っていた頃。多分土曜日の夕方だったのかな。
帰宅頃には暗くなっていた記憶があります。
終わった後に牛乳を飲めるようにと、母が毎回70円を持たせてくれたのです。
消費税がなかった時代、70円でパック牛乳が一個買えたので。
スイミングが終わった後、急いで着替えて送迎バスが出るまでのわずかな時間に、スクールの隣のスーパーに駆け込んで、どれだけお菓子を買えるかを考えて買うのが楽しかったです。
そのスーパーには5円か10円から買える駄菓子屋さんと同じお菓子が沢山あって、ベビースターとか、麦チョコとか、小さいガムやスナック菓子をいくつか買ってバスに乗っていました。
お小遣いはずっと学年×100円だったので高いものは買えないのですが、おやつは家にあるせんべいとか麩菓子、みんなで分けられる大箱のお菓子、お茶うけの袋菓子みたいなものだったので、流行りのお菓子は自分で買ったりとかしていました。
中学生になった姉が、たまに「VIPチョコレート」という200円の高級板チョコを買っていたのが憧れでした。あと、ポテトチップスがやっぱり好きでした。
そんなもんだから、遠足のお菓子を買うなんて最高に楽しいイベントでした。
例え300円以内でもw好きなお菓子を自由に買えるのは嬉しいことでした。
ヨーグレットとか、チョコボールとか、ポッキーとか買えるのが嬉しかったです。
私は食い意地の張った子供でした。
おやつや果物の分配の時は、少しでも多く入っているものを狙っていたし、どうやったら姉弟より多くもらえるか考えてばっかりだった気がします。
今は甘いものがそもそも苦手になったぐらいですが。
今、ケーキを独り占めして自由に食べる娘や、そのケーキを他の人に分け与えられる余裕のある娘を見ていると、あまりにも違いすぎてちょっとショックを受けますw
ジュースと言ったら自販機の100円の缶ジュース。水やお茶は買うものじゃない。
我が家では、ジュースは誕生日やクリスマス、旅行などの時の特別な飲み物でした。
毎食後に必ず緑茶をいれて、飲んでいました。
私はすすんで入れるぐらい温かいお茶が好きでした。
虫や草花は身近な存在でした。
授業で飼った青虫と蚕以外では、カブトムシやクワガタ、鈴虫、バッタなど、あと低学年の頃はザリガニ釣りもしていた気がします。
おたまじゃくしや、メダカは教室で買われていました。あと、ザリガニも。
磯に行くと山ほどヤドカリを獲ってきちゃったりとか。
校外学習も頻繁にあり、クラスで列になって学校の近くの里山などを歩き回るのですが、田んぼや畑はもちろん、牛が飼われていたり、納屋や長屋門のある農家があったり、少し歩けばそんなところでした。
虫や草花などを「発見カード」に描くのですが、3、4年生ごろはそれにハマって一人でせっせと書き溜めていました。
夏は、近所の自衛隊駐屯地の盆踊りと花火大会が定番でした。 今でもやっています。
子供の頃、浴衣のご婦人の集団が多くて、怖そうなおばあちゃんが
「兵隊さんのジャマするんじゃないよ!」
と子供達を叱りつけていたのが印象的です。
運動会は秋に開かれていました。まだ今ほど暑くなかったのです。
運動が苦手でしたが、踊りや鼓笛隊などもあり、騎馬戦や組体操もありました。
冬は、プリントごっこでたくさん年賀状を刷りました。
私と姉が原画を描いて、それぞれ2種類作ったりしていました。
小学校で、毎年たこ揚げ大会があって、毎年自分のたこを作っていました。割り箸を骨にして。
私は絵を描くことばっかりこだわっていて高く上がる機能性のタコは作れていませんでした。
でもたこ揚げは楽しかったです。
あと、学校行事で、毎年5年生が育てたお米で、餅つき大会。楽しかった。
自衛隊の駐屯地にはさまざまな施設があり、高校生の年齢の生徒が学ぶ学校もありました。
休日のバス停には彼らが行列を作っていましたし、女子学生もたくさんいました。
自衛隊員は警察官と同じく、雨の日も傘をささないんですよね。
土砂降りの日なんかによく帽子に叩きつける雨を見ていた記憶があります。
また、米軍基地(ベース)も市内にありました。
これも、向かいの家の(幼馴染の)お父さんがベースに勤めていて、小さい頃に基地の中に連れて行ってもらったことがあります。
今でも年一回程度ある開放日(よくピザなどを買いに行く人がいる)だったのかな、おじさんと兄弟と行きました。
その時は幼すぎてほとんど記憶にはありませんが、テイクアウトでトウモロコシを食べさせてもらいました。
見た目は焼きとうもろこしなのですが、ミルクのようなもので甘く煮てあるのです。
ベースの人はこう言うものを食べているのかーと思いました。
その向かいのお父さんは、ベースの中で釣った(?)と言う魚も、よく届けてくれました。バケツの中にたくさん入っていて、食べきれなかった記憶があります。
自衛隊と基地のある街で育ったので、戦争とか核兵器とか、反対とか平和とかも、まあまあいろんな観点で見ていました。
学校で習った「非核三原則」なんて、ぶっちゃけ守られていないじゃないかって思っていました。
原子力潜水艦が母港にしているところです。
冷戦時代だったので、もしも核戦争の火蓋が切られたら真っ先に核攻撃受けると言われていました。
また、核弾頭もつけられるトマホークという兵器を備えた戦艦が母港にするとか空母入港とかで、反対デモなんかもよくあり、母に連れられて参加したこともあります。
覚えているのは6年生の6月にいちまんにんというやつでした。
そんな規模なので、その後も着々と強化は進み、最大くらいの空母も入れ替わり立ち替わり母港にして、もうそういう運動は見なくなりましたが。
話は変わります。
小学校6年から中学1年か2年ぐらいかな。
夏休み2回とそれ以外一回ぐらいだったかな。
*村という農場体験のようなサマーキャンプのようなものに参加していました。
母の同僚の勧めで、 私と弟だけが行き、弟は私よりも回数は多かった気がします。
そこは、のちにカルト村と呼ばれ騒がれたところです。
ちなみに、母の同僚はその後に仕事を辞めて家族ぐるみでその村へ引っ越して行きました。
私だけの感想を言うとすれば、楽しい体験でした。
まあ母に逆らうことなど考えもしなかった頃でしたが。
鶏の卵を取ったり、お菓子を作ったり、みんなで雑魚寝したり、火を囲んでギターに合わせて歌ったりするのが何もかも新鮮で楽しかったです。
その村で毎晩のように歌われていた歌を、カセットテープを買っていって聞くほどに。
こんな世界もあるんだ〜と思ったり、中1の時は、中3のTちゃんというお姉さんに憧れてしまったり(数日の恋でしたが)しました。
そんな思い出があります。