保育園の年中〜年長の頃

保育園についてはよく覚えている。
この頃のもっとも大きな記憶は
「保育園の給食でキライだったメニュー」のことだ。
一見なの変哲もない普通のメニューで、自宅で出たら
喜んで食べるようなおかず
(ナポリタン風のスバゲッティと目玉焼きが重なったもの) 
なんですが、味が何故かすごく合わなくて。
何ひとつ嫌いな食べ物がなかった私が食べられなかった。
何度か出たと思うんだけど、
そのメニューが出たときはどうしても喉を通らなくて、
好き嫌いで給食を残すことなど許されない事だから、
一人で居残りしてお皿と向き合って座っていた。
でもどうしてもどうしても喉を通らなくて、
泣いていたと思う。

そんなわけで、保育園の思い出といえば、
「いつ、そのメニューが出るかな、 どうしよう!」
という恐怖の感情だった。 
毎日毎日、
「あれが出たらどうしよう、いやだな、こわいな」
と思いながら行って
「明日の給食に出ないといいな、こわいよ」
と思いながら帰って眠る。
そんな毎日だった。卒園するまでそれは続いた。
本当に5、6歳の自分が、かわいそうです(笑)

ちなみに小学校の給食でも、それ以降でも
嫌いなメニューはありません。
自宅では「いやしんぼ」と言われていたほど姉と弟の兄弟の中で

一番食べるのもつまみ食いも大好きでした。
本当にアレ(給食のメニュー)は何だったんだろう。

 6歳のいつ頃だったか、母が入院しました。
徒歩で行ける総合病院でしたが長期の入院でした。
手術もしていたようです。傷跡はお馴染みでしたが詳細は知りません。
私の小学校入学式には祖母が出てくれました。
着物を着た祖母が集合写真で一緒に写っている写真があります。

入院中にお見舞いに行き、同室のお姉さんに構ってもらって、
退院の時に置いてあったぬいぐるみ をもらい、何度か手紙を書いた。
(そのお姉さんの名前や住所が記憶に残っています)

これを書いていて思いますが、幼い頃に母と遊んだという記憶はありません。
祖母か姉かで、いつも弟がいっしょで、
父は寝る前に本を読んでくれていた記憶はあります。

父といえば、私が小学生になり母が退院したかどうかぐらいの頃?
こども三人を連れてディズニーランドへ行ってくれました。
開園した年の混雑の中(写真を見ると夏服のワンピース)に
行っていたので大変だったと思いますがすごく記憶には残りました。

お気に入りの(キキララか何かの)パースにありったけの
全財産(と当時は思っていましたが実際は数百円程度だろうか)
を持って、ワクワクの自分。
アトラクションもイッツアスモールワールドとカリブの海賊、
は覚えています(それしか乗っていなかったかも)
どちらも大感動したんですが、カリブの海賊を降りた後に
ポシェット がなくなっていることに気づいたんです。
大ショックでした。
カリブの海賊で落としたとしか思えず、見つからず、
その後は「海賊にとられたと思って」諦めきれない思いでしたw

私は、いつもぬいぐるみ と一緒でした。
コアラの親子(名前は最初にコポちゃんと書いてあった気がするので
こどもの方はポッポちゃんと名付けました。)
カッちゃん(イルカ)水族館に行った時に買ってもらった。
(江ノ島か伊豆のどっちか)
あと、お世話人形の赤ちゃんのサッちゃん(私が命名)
寝かせると目が閉じて、ミルクを飲みます。
この頃おもちゃは「誰の」という決まりはなかったけど、
私は旅行にも持ち歩いていました。
弟も持っていたけど(私に持たされていたようなものか?)
後に自室ができた頃まではぬいぐるみ 類は私の部屋に持ってきていて、
ベッドの傍に並べて、コアラ親子は抱っこして眠っていたと思います。
しかも、ずいぶん大きくなるまでそうして眠っていたような?



6歳の頃に戻ると、弟とは人形遊びをしたり
人形の家やいろんなものを作ったりしていた気がします。
家には、おおよそ一般家庭に無いような学校用の用具がたくさん
あったので(折り紙・色画用紙、接着類、サインペンなどはもちろん、
カラーセロファンやカーボン紙、チョークも大量にありました)
それで何でも自由に作っていました。

私はお絵描きが大好きな子供でした。描くのはもっぱら「チラシの裏」新聞の折り込み広告の片面刷りの白い面でした。
子どもの私にとってツルツルしたコート紙の両面フルカラーのチラシには価値がなく、一色刷りの描きやすい紙のチラシを見つけると嬉しくなったものです。

絵画教室でもこの頃には水彩画になっていました。
外出先といえばその「アトリエ」と祖母のある国鉄の駅近く。
祖母は平屋の二世帯の長屋のようの家に住んでいて、
トイレと風呂は一度外に出たところにある古いものでした。
そのため、祖母の家に行くと銭湯に行きました。

TVは、特撮は「ダイナマン」とかがやっていました。
ドラえもんは大好きで長く観ていたアニメですが、
いつから観ていたかは分からないけどこの時期ぐらいからでしょうか。
TVは食事の部屋とは別で畳の部屋にあったので、
見る番組や時間が決められてその時間だけ観ることが許されていました。

自宅は古いけど1階だけでかくれんぼ出来るぐらいゴチャゴチャ
していたし庭も広かったので、今思えばあまり外で近所の子と
遊んでいなかったのかもしれない。
遊びが兄弟で完結していたみたいな。
もしかして3人とも大人しめというか人見知りタイプだったのは
そのせいだったのかもしれない、と気づいたのはだいぶ経ってから。 

とはいえ、近所の男女含めて何人かとチャンバラ…だったかどうかは
ともかく鬼ごっこか陣取りのように棒きれ持って走り回っていた
記憶もあるし
(それで一回、弟がすぐそこの運河に落っこちました。
幸い水もほとんどなく怪我もなくケロっとしていましたが
姉と私は慌てていたので覚えています。)
小学校低学年あたりまでは男の子も交えて外遊びもしていました。 
あと姉と同い年の女子が向かいに住んでいてよく遊びに行き、
お兄さんのものがファミコンとの最初の出会いだったりしました。

6歳の娘へ


最近は幼稚園の預かり保育の子と遊ぶ様子も垣間見られてきました。
兄弟がいないけど、お友達と今しかできない遊びも
沢山遊んで欲しいと思います。

母の保育園時代に園庭でやっていた遊びは、
「たかおに」「いろおに」「はないちもんめ」「かごめかごめ」
「かんけり」「あぶくたった、にえたった」「だるまさんが転んだ」

娘や先生のお話に『「ゾンビごっこ」している時に〜』とか
「ゾンビごっこ」とやらをしてるようなので最初
「?最近は鬼ごっこのことをそう言うのかな?」と思ったのですが
もしかしたらタッチされたら鬼になっちゃうとか、もしくは
他に独自のルール(昔の「こおりおに」とか、)がある鬼ごっこ
なのかな、と予想します。「いろおに」もやっているそうです。

「おかあさんの子供の頃、こういうお人形を持っていてね」と
説明していたら娘
「そうなの?ドウガみせて?」と言われた。
動画あるわけないw
でも、逆に、幼い頃の身の回りのほぼ全ての動画を撮られて

残っていくというのも子供にとってどう思うんだろうね、

と考えてしまいます