父親の話し。
父親はまだ生きておられると思う。
昭和8年うまれだから
83才か、、、
私は彼の初めての子供として生まれた。
小学校二年生のとき、父母は離婚した。母に引き取られ、その時、わたしは二つ目の名前をもった。
父は傲慢豪傑の権化のような人間で、昭和の高度経済成長のおかげと、仕事好きだったことで、母は、離婚したあとも、生活費は、贅沢するに足るほどもらえた。そのおかげで私と妹は、ずっと何不自由することなく、大学までいかせてもらえた。
その上「あんたが勉強するんやったら何でもしてあげる」と、ぽろっと出てしまった一言を私は聞き逃さず、私は大学卒業後も働きたくなかったので、専門学校にまでいかせてもらえた。今から考えるととんでもない話しだけど、いいっていうからやらせてもらった。
父はたくさん会社を興し、そして転覆を繰り返しながらも、高度経済成長っていうの、その流れに乗って、社長やら、理事長という名前をもらってブンブンえばりちらしのし歩いていた、と思う。
もちろん仕事も人よりグンと抜きん出ていたのだろう。
離婚していても、母は、たくさんお金をもらっていた。それが可能だったから。。。
父は忘れた頃に、たまに私たち母の家に連絡なく、突然やってきて好きなことをしゃべり散らかして威張って帰る。
私は大学卒業後は家を離れたので、その後のことは詳しく知らないが、
自分の居所と電話番号は長いこと知らせることなく、突然高価な食べ物を持参してやってくるというかんじだった。
私の母と離婚した後も、次々と女を作り、再婚離婚を繰り返し、その数(結婚と子供の数)は私にはわからない。
きっぱり離れていたらそんなこと知らなくてもいいことだが、付かず離れずなんだから、たまには耳にも入ってくる。どーでもいいんだけど、、と思いながら、パパ(父)が死んだら、葬式どんなんやろなと思ったりしたりしていた。私には血のつながった兄弟がいっぱい居るかもしれないと時々思った。
私が父と同じ家に暮らして居たのはわずか7年。(しかも不在が多かった)
私は随分大人になってから、、、
話す内容(日本独自の感覚と自分の感覚の相違点)、その口調やら、咳をこんこんとして、のど飴をボイっと呑むその仕草とか、、雰囲気そっくり~しゃべることも同じ~と言われた事があって、、習ったこともなく、毎日姿をみて居たわけでもないのに、血筋というのはスゴイもんなんやなと思った。
私は結婚後、ずっと専業主婦に浸っていたので、仕事のスキルはゼロに等しい。仕事の才覚は私にはぜんぜんない。
私はこの父親の娘。
しかも長女。
主張力と行動力、自己中心的であることが似てると思う。
父は何年か前、心臓の大手術をしてから、生きるのも大変らしい。
かつては、取り巻きもたくさんたくさん居たはず。
今は何度も作ったオンナやたくさんの子供にもあんまりかまってもらえないようで、孤独な生活をしているらしい。
私は、自分の今の状態で、、人の意見を一切聞かず、、自分だけがこの世でいちばん正しく、誰の声にも耳を傾けようとしない、このお父さんに会いたいと思えない。
親不孝かな。
私は、父に関する思い出はとても少ない。
とっても小さい頃、出張先から絵はがきを送ってくれて、、
それは香港の夜景の絵はがきだった。
お土産もって帰るから、イイコして待っててね、と書いてあった。
ノートに、かわいい豚のイラストを描いてくれてたのを覚えている。Q子が豚ちゃんを描いて描いてというから描きましたと添えてあった。
親孝行ができないわたし。
だって、
母親のお前がワルイから、と、
これ以上責められたら、私はよう生きていかん。
結局、親を大事にできないわたし。
子供においていかれた私。
子供の頃もそして再び今も家族に縁のないわたし。
父も結局そう。私も同じ。
運命って何なんだろう。