本日6月15日は、
日本最初の哲学者、空海の生誕の日です。

当方が空海を何故哲学者と呼ぶのかといいますと、
『三教指帰』の発起
『弁顕密二教論』の分析
『十住心論』の世界観

『即身成仏儀』『声字実相義』『吽字義』での
<身口意>の方法論

そして、集大成ともいえる
『般若心経秘鍵』

と現代の哲学者でも数えるほどしかいない
哲学体系を持って世に問うた高僧であるからです。

情熱や信仰ゆえに讃えられる高僧も多いでしょうが
空海はその精緻な洞察力を持って、
それを書に著した。

また、部分的に仏教を表現された僧侶も多いですが
空海は違う。

ある終着点まで辿り着いた僧侶と言えるでしょう。

その手法が、現代哲学の方法とも似ていて、
方法論を明示しているところにその卓越した”他者感覚”を
持っていると言えるのです。

僧侶が書を残すのは、自分の為でもありますが
他者を悟りに導くためでもあります。

空海の歩んだ道を歩めば、
「即身成仏」つまり悟りの境地に至るという訳です。

仏教を難しいとか旧いとかいう前に
現代語訳で空海に近づいてみて、
「仏教とは何か」という言葉を発して欲しい。

自己が仏になる道を示してくれた空海。
それは釈尊が
自己が仏になる道を示したように、
日本人の方法で悟りに至る道を示してくれたと思います。

合掌 (ー人ー)
『聖書入門』という本を読んでいます。

仏教から離れるわけではなく、
当方が聖書を読んでも西洋文化に馴染むように読めないと思い、
入門という大家でしか書けないモノを読んでみようと思いました。

今のところ馴染んでいません。
真言宗が起こった場所。
この場所について何か次の手懸かりがあればと思います。
18連隊の兵士が脚気で戦死するものです。
本隊から離れ、簡易な病院からも離れ、さまよい続ける。
そして、促されて辿りついた洋館で死してしまう。

その感情の流れは、作者のものですしさすがだと思います。

この「一兵卒」という言葉を使った議員さんは今どうしているんでしょうね。
本来お寺は、説法をするところであり、相談をするところです。
しかし、自己中な人は自分の判断だけが正しいと狭い世界に入り込む。
人生の相談は、他にも窓口がある。
など、お寺が本来の役割を達成していない現代で、
どういうお寺観をもって修行されておられるのか楽しみです。
ビンラディン容疑者の殺害作戦を「生ツイート」、地元住民が投稿
 [ドバイ/アボタバード 2日 ロイター] 米軍によるウサマ・ビンラディン容疑者の殺害作戦が行われた..........≪続きを読む≫


アラーの神以外を信じる者を抹殺するという”聖戦グループ”の
中心人物であるラディンは、その自分が信じる神以外の信仰にも慈悲を持つべきだった。
その全うな慈悲を持たない信仰は、不十分な信仰であると言わざるを得ない。
信仰は自己に根差しており、他人に押し付けられても、変更が難しいものである。

本当にラディンもアメリカもしないといけないのは、
一神教が持つその”不寛容”である。


ダライラマ14世が法要をされた。

人間は、哲学や科学などに象徴される知性や知識だけで生きていない。
そこを補うのが宗教である。

津波による現実の被害、原発による被害、そもそもの地震による被害の現実は、
科学で説明されても哲学で説明されても、解消できないものがある。

どうしようもない絶望感。
家族や友人知人を亡くしたという悲しみ、
これからどう生活して行こうかという不安感、
助け合っていかないとという思い、
そして、ボランティアや知人友人、また世界のいろんな人からの励まし、
子供の今生きているという笑顔。

いろんな感情が混ざり合っている現状を、
仏の道を示すことによって、仏の知性や知識を受け取るだけでなく、
その”微笑み”を受け取るという儀式が
法要という儀式の一つの意味でしょう。

なにかしら、荘厳な世界に導いてくれる儀式。

日本は仏教国と言われながら、仏教の意味を多くの人は忘れている。
この写真を見て、はっとした自分がいる。

人は納得するのは、知性ではなく感情であると。

ダライラマ14世はいろんな思いをこの法要に托されたのではないか。
そう思われる。

この本で何か書こうかな?
迷い中。

内容は現代の日本の仏教や宗派意識に提言している部分と佐々木師自身の自伝的経過を書かれています。また、支援されている方への感謝も綴られています。
岩手県陸前高田市の「高田松原」の松が一本残った話をメディアで知りました。
強く根付いた松でも津波を直接受けたらひとたまりもない。また、他の松の道連れで倒れた松もあるでしょう。引き波もある。凄く縁があり、強く、そして迎合しない位置にあった松であろう。

中観として素晴らしい生命を感じますね。
国の政治が成り立たない原因は、
日本国民が、相手の言っている意味とは違うことを
言い掛かりをつけることに慣れてしまっているのですね。

つまり、自分(この場合は自民党)の都合のいい意味を見つけ出し
言い掛かりをつける。
そういうことに慣れてしまっている。

国会がこういうことに一日一億円かけて議論をすることかと思う。

自民党は、1000兆円の国の借金を作り、
既得権益をそのままにしてきた政治である。

その政治に戻る可能性が出てきたことに大変残念に思う次第です。

国の法律がどうのいう人がいますが、
悪意を持って自民党に献金をうけ、大きくのし上がっている議員たちの罪は、
ほんの4年ほどで25万円の献金を追求する。
そういうことでいいのかと思う。

1000兆円の国民からの借り入れは、返さないといけないということになる。
勿論、利子を付けてである。

冗談じゃない。

そういう政治に戻りたくない。

益々、第一次産業は、ひも付き政治の餌食になる。

政治資金規正法には、
「故意に行うと刑に処するとある。」

言い掛かりで政治をする自民党は、反省して欲しいですね。