出張から帰るのを待ってくれていたのだろうか、昨日の朝親父が亡くなりました。
月初め、春物を取りに帰ったついでに親父の施設に寄ったらとても顔色が良くて安心してたんだけど。。
朝、ナースコールのボタンを押したあと血を吐いてそのまま逝ってしまった。
母が駆けつけた時は絶命していたらしい。
正直、まだ実感が湧かず悲しみはジワジワと押し寄せてる途中かな。。。
父は日立系のサラリーマンで、僕が小学校に入った頃には東京に単身赴任していた。
母は美容室を経営していて、結構繁盛店だったから随時住み込みの女性がいたのを覚えてる。
小学校4年の夏に札幌から東京へ引越してみんなで住むことに。
教育熱心の両親は僕を塾に入れて家庭教師を雇ってくれた。
でも中学受験で開成を落ちてからは少し緩くなったか。
何年かパートをしていた母は僕が中学3年頃、商売人気質からか世田谷で飲み屋を始めた。
僕が結婚してからも続けていたので、15年くらいやってたのかな。
その間は、サラリーマンの親父と飲み屋の母でいつもすれ違いの生活。
なので都立で一番自由な高校「豊多摩高校」に入学してからは干渉されないんで超遊んだな〜。
いい成績で入ったのに出る時はABCDEランクのギリDで卒業(笑)だってEは留年だから!
現役で国立を受験するけど当たり前のように失敗w
そして予備校へ行くも、1カ月で親父が呼び出される。
だって3日くらいしか出席してないんだもんね。
心を入れ替えたふりでまたまた遊びっぱなしの毎日。
翌年の受験は国立と東京農大を受験、全然勉強してないこんな僕が補欠合格した農大のレベルはどうなんだ?ww
でも大学に行きたくなくて、服飾の専門学校の願書を親父の枕元に置いておいたらいつの間にか申し込んでくれた。
とここまで親父に怒られたことが一度もない。
それなのに専門学校に行きだしたらまた3カ月で親父が呼び出し(笑)
「このままでは卒業できませんよ」と言われたらしい。。
その夜「ちょっと飲みに行くか?」と誘われた。
3軒飲み歩いたけど一言も喋らなかった親父、やっぱ怒ることもなく気持ちを態度で伝えたかったのかな。
卒業してから2社10年勤めて独立起業。
親父は12年間経理をやってくれたよ。
「もう俺はできないぞ」と少しずつ間違いが出てきた時にギブアップ。
途中、狭心症・心筋梗塞・腎臓癌・脳梗塞・人工関節・人工透析と病気のデパートみたいだった。
透析途中で片足を切断。
それを機に施設に入った。
無器用だったけどとても優しい男だったな〜。
お酒が大好きで、酔うと酒乱ぽくなるのが玉に瑕。
気の小ささを隠したかのか。。
小学校入った時、とても達筆だった親父は新聞の記事を読みながら「字がキレイなのは信用されるぞ」と新聞紙にサインペンで文字を書かせ続けた。
そこまで達筆ではないけど、ずっと褒められてきたのは大感謝。
中学受験の時は、天声人語を毎日切り抜いて「これを読んでおくといいらしいぞ」って言ってた。
高卒の親父は少しでも協力できればと思ったんだろうね。
経理をやってくれてた親父に反発して喧嘩もしたな。
そのころは「俺の会社なんだから口出しするな!」って気持ちが強かったし。
最後施設に行った時はお寿司を持って行ってあげたんだけど「ありがとうな!ありがとうな!」と今まで以上に感謝してくれた。
親が元気でいてくれるのが一番!そう思いながらももっと優しくしてあげられたら良かったと後悔先に立たず。。。
でも昨夜今夜とお風呂でたくさんたくさん泣いたから大丈夫。
明後日の葬儀で親父の顔を見ながら目一杯感謝するよ。
いろいろゴメンね、そして僕を今まで育ててくれて本当にありがとうございました。