美術館 FRACTAL

『ラス・メニーナス(フェリーペ四世の家族)』ペラスケス
|1656/57|油彩・画布|318cm×276cm|Madrid,Museo del Prado


何のためにペラスケスは主題をこのように難解なものにしたかという疑問が浮かぶ。
それに対する答えの一つは次のようなものである。画家は記録として『ラス・メニーナス』を描こうとしたのではなく、詩のような絵として描こうと意図していた。
そして彼は肖像を書くという行為についての肖像画を描いたのである。 
ペラスケスは自分の行為、芸術、そして自分自身を創造主の地位に押し上げるために、自身の姿をこれほどはっきりと絵の中に描き出したのである。

それゆえにルカ・ジョルダーノは『ラス・メニーナス』を精神的な、あるいは哲学的な芸術上の取り組みの最上のもの、つまり「絵画の神学」と認識したのである。 


鏡は西洋美術史においての叡智の象徴だとされてきた。この慣例的な見方に従って解釈すると、鏡は国王夫妻の叡智を暗示していることになる。そしてこの絵画自体が、ある種の徳の教えで、国王一家の姿を映した鏡ということになる。鏡の中の神々しい光に包まれた国王夫妻の姿は、むしろ、王制によって神格化された最高の地位を示していると考える。

画面前方左に存在するマリア・サルミエントは、赤っぽい色の水差しをお盆に載せて、マルガリータ女王に差し出す。フェリーペ四世と彼の最初の妻、ブルボン家出身のイザベル王妃の間にできた子は当時18歳であったマリア・テレサ以外、全て他界していた。
1649年にフェリーペ四世は2人目の妻マリアナを迎え、マルガリータ王女が誕生。王女はこの絵が描かれたときには、王妃の唯一の子供であった。

この作品の王女の顔にはこの世のものとは思えぬほど優雅な美しさが表現されている。
これほどまでの美しさはペラスケスの他のどの作品にも見ることはない。





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『天文学者』ヨハネス・フェルメール
|1668|油彩・画布|50cm×45cm|ルーブル美術館


風俗画の巨匠ヨハネス・フェルメールの決定的な転換期を示す作品『天文学者』。
複数の研究者から異論も唱えられているものの、おそらくは翌年頃に描かれた『地理学者』との対画、又は連作であったと考えられる本作は、フェルメールが明確に風俗画を描き出した1657年頃以降の作品では非常に珍しい女性が描かれず、男性のみが登場する作品である。

本作の天球儀や天文学者の上半身、そして画面手前の机から垂れるタペスリー上部を照らす、窓から射し込む柔らかい光の表現は1660年代中頃までの作品と比べ、やや明度が増しているも、フェルメールの特徴的な調和と絶妙な均整性は失われていないのがわかる。
ただ、1650年代のモティーフの質感、色彩、明暗が細部にわたりしっかりと書き込まれた描法は姿を消し、流動的で筆跡を極力残さない滑らかな描法へと転換してしている。


また天文学者の纏う厚ぼったいガウンに見られる複雑なウエット・イン・ウエットを用いた描写法や、タペスリー上部に散乱する独立的で装飾的な光の粒の描写は、画家の技巧的表現への傾倒を感じさせる。

この天文学者が右手を添えるのは、おそらく『地理学者』の画面上部に描かれる地球儀の作者と同じアムステルダムの地図製作者ヨドクス・ホンディウスの手による天球儀であると思われるほか、本作の画面右部には≪モーセの発見≫を主題とした画中画が掛けられているのも注目すべき点のひとつである。

なお本作には1668年と後補とされる年記が残されているが、一般的にはこれを支持している。


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『デルフト焼きの花瓶のバラとジャスミン』ピエール=オーギュスト・ルノワール
|1880-1881|油彩・画布|81.5×65cm|エルミタージュ美術館



写実主義においては、ミレーのように働く農民など、辛い生活を描いたが、ルノワールはそういった写実主義からの変化を促した。

印象派の画家たちは決して、辛い労働などを主題にしなかった。パリの中流階級の、都会的な楽しみ、余暇の余裕に溢れた人々を描いた。
余暇の楽しみは、我々の生活に欠かせないものでもある。充足に満ちた時間を我々はどれほど焦がれるか。ルノワールは、こういった近代的な光景に美と魅力を感じたのである。

多くの研究者が指摘しているよう、人物画などで用いられたルノワールの軽快で女性的な表現手法とは明らかに一線を画した、まるでポール・セザンヌを彷彿とさせる大胆な(やや厚みを感じさせる流線描的な)筆触によって奔放に描かれており、この静物の生命力をそのまま反映させたかのようである。

また本作ではルノワールの対象静物そのものが発する色彩への取り組みや、静物の配置による画面の装飾性の追及も特に注目すべき点のひとつである。

対象の質感、例えば瑞々しい花々の艶々とした滑らかな質感は写実的(デッサン的)な描写手法ではなく多彩な色彩によって表現されている。またこれらの色彩はテーブルの白色と見事な対比を示しており、観る者へ生気に溢れたある種の躍動感を感じさせる。

さらに背景の曖昧な色彩感覚は静物の固有色と白色の架け橋としての効果も発揮しており、ここでもルノワールの色彩への意識の高さが示されている


ルノワールは言った。

「芸術が愛らしいものであってなぜいけないんだ?世の中は不愉快なことだらけじゃないか」



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洗礼者聖ヨハネ (San Giovanni Battista)1513-1516年
69×57cm | 油彩・板 | ルーヴル美術館

制作の詳しい経歴は不明だが、ダ・ヴィンチ最晩年の作品とされる『洗礼者聖ヨハネ』。
晩年期は失意の中フランソワ一世の招きによりローマを去り、フランスへ向かったダヴィンチが同地で描き、本作と『モナリザ』、『聖アンナと聖母子』の三作品は生涯手元に残した。

なお、モナリザを思わせる聖ヨハネの端正な顔立ちと微笑みは、ダ・ヴィンチが同性愛者だったという推測に基づき、寵愛していた弟子をモデルにしたという説もある。
ヨルダン川でキリストの洗礼を行なった者とされる洗礼者聖ヨハネは、バプテスマのヨハネとも呼ばれ、都市生活から離別し、神の審判が迫ることを説き、人々に悔い改めの証として洗礼を施すが、ヘロデ王の娘サロメの願いにより斬首刑に処された。

また本作を始め、レオナルド作品によくみられる、この天に向け人差し指を指すポーズ。
ここでは天からの救世主キリストの到来を予告し、道を平らかにするよう悔悛を説いてると解釈されている。
SALA DELLE ASSE

『ダナエ』(Danae) レンブラント
1636-1640年頃 185×203cm | 油彩・画布 | エルミタージュ美術館


巨匠レンブラントを代表する神話画作品のひとつ『ダナエ』。
本作は、オウィディウスの≪転生神話≫を典拠とした、アルゴス王アクリシオスの娘ダナエと、ダナエに恋をし黄金の雨に姿を変えダナエの下へ降り立ったユピテルの愛の交わり≪ダナエ≫を描いた作品である。

ルネサンス期よりティツィアーノを始めとした幾多の巨匠たちも描いてきた有名な主題であり、通例では純潔の象徴として描かれてきた≪ダナエ≫の姿をレンブラントは、ユピテルの到来を恐れず、むしろ喜びに満ちた表情と仕草で表現しており、レンブラントのイタリア絵画への鋭い考察と、裸婦像の官能性の追及が示されている。

また近年におこなわれた本作の調査によって、ニスが塗られた後、レンブラントが修正をおこなっていることや、18世紀中頃までに画面がトリミング(切り取り)されていることが判明しているほか、1985年に所蔵先のエルミタージュ美術館(サンクト・ペテルブルク)で硫酸がかけられるという事件が起こり、その際、裸婦の頭部や両手、両脚に修復不可能なほどの損傷を受け、残念ながら今日では原図の輝きや筆致を観ることは叶わない。

『サント・ヴィクトワール山』ポール・セザンヌ
1885年-1889年  ロンドン、コートールド・コレクション



世紀末の人生の最晩年に、少なくとも八枚のサント・ヴィクトワール山の油彩が制作されたが、その中にはチューリッヒの二枚とバーゼル美術館の一枚が含まれている。
いろいろな違いはあっても、いかなる前提をも交えずに額縁のあらゆる働きから解放されて、このモチーフを直接捉えるまなざしが、これらの油彩を結びつけている。

サント・ヴィクトワール山は、他の豊かな風景モチーフ、とりわけ彼の故郷プロヴァンスの豊かさと渾然一体となっている。つまり、シャトー・ノワール、ローブの道、ジョルダンの小別荘、ビベミュの石切り場等と一体となっているが、それでもなお、この山はモチーフとして何か比類ないものをもち続けている。

エクス周辺の風景の中で、最も高く、周囲を見下ろすこの山は、地質学的形態以上のものを表している。
モーゼが十戒を受けた旧約聖書のシナイ山から、来るべき神の栄光をキリストの弟子達が見たタボル山、そして、北斎の手による神聖な富士山の数多くの景色にいたるまで、山というものは、文化にとって特徴的な経験を表している。


バーゼル所蔵のこの絵画は、後に描かれた全てのこの山とともに、むき出しの構造から構築されている。
画面は色斑の絨毯から出来ている。
この目に見える、いや、はっきりと現れている画面構造は、私達がそこに何を再認しようとも失われることはない。

さらになお、それは斑点やコントラストの明らかさと、手を加えた色彩とによって高められている。
毒々しいクロムグリーン、鮮明な青、二つの相反する価値を持つ紫、油分の多い黄土色の各色にいつでも見てとれるのは、これらの色が目に見える自然を、人目を欺くように真似てつくり出そうとしたり、それを気分という魔法で再び呼び出したりしようとはしていないことである。

これらの色は人為的に置かれたつながりでありーあらゆる直接の印象や、印象の暗示に対してー間接的であることを、つまり画像構造が明瞭であることを目指している。

セザンヌは観者自身の目をも視覚のプロセスに引き渡す。



『システィナ礼拝堂天井画』 ミケランジェロ
1508-1512年頃 1300×3600cm | フレスコ |
システィーナ礼拝堂(バチカン)




どの場面も彫刻家の作らしく人体中心に描かれ、自然の光景は最小限に止められている。
しかしミケランジェロは自己の天性を生かしながら絵画の特質を充分とらえたのである。それはここで彫刻では一度も作られなかった「神」の姿を表現することができたからといってよい。

≪もしその絵が彫刻に近づいたら、それは良い絵画であり、彫刻が絵画に近づいたら、それは悪い彫刻だと思わなければなりません。良い絵は多くの肉付け(丸み)と立派な様式を持たねばならないのです。
完全な絵画が似ていなければならない彫刻と浮き彫りは、もちろん大理石やブロンズの作品だけでなく、それにも増して優美な男性や美しい馬やその他のものと同じような活きた彫刻であると考えねばなりません≫。
これはミケランジェロ自身が語ったとされる言葉であるが、この言葉はレオナルド・ダ・ヴィンチの「絵画優越」の理論に対する反論であると同時に、この『システィナ礼拝堂』のフレスコ画を制作した画家の自信が裏づけとしてあった事はあきらかである。

天井画の観察は十九世紀末のヘンケ以来述べられてきた下から上へのぼるヒエラルキーをもった世界では必ずしもないことを理解させる。すなわち啓示以前の人類の状態は、「キリストの祖先たち」やその物語画に、人知の状態は預言者と裸体像に、天と直接に関わるさまは『創世記』の中の物語に暗示されている、という仮説は崩れるのである。
下の方から上に、また「ノアの物語」から「天地創造」に向かう上昇線をたどり、人類の辿る精神的運命の変還は必ずしも妥当ではない。


<ピエタ(Pieta)>ミケランジェロ  1499年
174×195cm | 大理石 | サン・ピエトロ大聖堂(バチカン)



「若さ」の表現として、欲望と狂気の「ディオニュソス」と反対の無垢な清浄さを表現した像がローマ・サン・ピエトロ大聖堂にある『ピエタ』である。
公開当時より圧倒的な支持を受けた、彫刻家ミケランジェロ初期の傑作『ピエタ』。主題は中世~ゴシック期より最も特徴的で広く一般に普及した祈念像だ。

このピエタとは憐憫や敬虔の意味を持つラテン語から発生したイタリア語で、キリストとその死を嘆く聖母マリアの姿を指す。ゴシック期以降は彫刻の他、絵画などを含む図像の総称として、この名称(ピエタ)が使用されるようになった。

豊かな衣は、聖なる衣であり、「悪」から守る神的な覆いである。これは彼の聖母子像にも、システィナ礼拝堂天井画の神々の姿にも描かれていた。この衣によって神的な清浄さが守られるのである。
晩年の『ピエタ』にはこれさえなくなるのであるが、若き日のミケランジェロには、それが彼の確信に満ちた信仰の証であったと考えられる。


そしてこの像でひとつ意外な面がある。それは唯一ともいえるミケランジェロのサインが、胸にある帯に描かれていることである。ヴァザーリはこの像を制作中見たロンバルディア人が他の作家の名をあげたため、ミケランジェロが憤慨して、夜秘かに彫ったのだと語っている。
MICHELANGELVS.BONAROTVS.FLORENT.FACIEBAT.「フィレンチェ人ミケランジェロ・ヴォナロティ制作」と書かれたその胸帯は、この聖母にとって最も重要な場所にあるといってよいであろう。
このような帯は十字架以下の際にキリストを支えるための帯に使われたとしても「ピエタ」像で表現されなかったものである。
たしかにマリアの胸はこの帯が斜めにあることによって単調さが破られている。しかしその上に名前を刻んでいるのである。

この名前がマリアの胸を横切っていることに何かを感じさせる。つまり彼の「聖母子」像での特徴を思い出させるのである。メディチ家礼拝堂の『聖母子』で見られるように、乳房に顔を埋めようとする幼児キリストの姿のことである。これを「乳母」型聖母とでも名づけられようが、このような帯の存在は、それと同じように乳母に育てられたミケランジェロの母親への胸への情景によって説明できるかもしれないのである。



ミケランジェロはローマ滞在時、バッカス像と、このピエタの成功により名声を得て、芸術家としての地位を不動のものとするきっかけとなった。幾人の彫刻家が制作したピエタだが、弱冠23歳のミケランジェロが制作したピエタは、死せる息子キリストを抱える聖母マリアの悲しみに満ちた表情や筋肉や衣服の細密な描写など、それまでに彫刻されたピエタの表現を遥かに超えたものであった。

<羽根>アルフォンス・ミュシャ
リトグラフ 75.5cm×29cm 
1899年 所蔵先複数 F.champerois,Paris



19世紀末のヨーロッパ各地では、しなやかに流れる曲線を特徴とするデザイン様式が流行していた。

日本美術の影響下に生まれたこの様式はフランスではアール・ヌーヴォー(新芸術の意)と呼ばれ、建築、産業デザイン、ポスターなどあらゆる分野を席巻した。
印刷術の発達で街角を飾るようになったポスターは、19世紀末が生んだ新しい芸術ジャンルだった。アール・ヌーヴォーのポスターを代表する作家が、チェコ出身のアルフォンス・ミュシャ(1860~1939)である。

象徴主義の画家でもあったミュシャは、海草のように複雑にうねる髪が特徴的な女性像を描いて人気を博し、その影響は現在のイラストレーションにも及んでいる。円環を用いた曼荼羅的な構図と、髪の重なりがシルエットのように平面的に処理されているのが特徴的だ。

<青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)>ヨハネス・フェルメール
1665年ー66年 油彩、カンヴァス 44.5cm×39cm ハーグ、マウリッツハイス美術館蔵



フェルメールの最も有名な作品のひとつで、北欧のモナリザと称される傑作『真珠の耳飾りの少女』。

別名、青いターバンの娘とも呼ばれる本作において最も特徴的な、黒色で統一される背景に鮮明に浮かび上がる少女の瞬間的な表情は、見る者に極めて強烈な印象を与えている。

これはレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロも使用した、登場人物(本作では少女)の描写以外の絵画的構成要素を極力無くした暗中の背景とによって対象を一層際立たせる表現手法と、鮮明な光彩描写やターバンや衣服に用いられた黄色と青色による鮮やかな色彩のコントラスト、少女の振り向きざまの一瞬を捉えたかのような構図などとの相乗的効果によるところが大きい。


また1882年のオークションでわずか2.5ギルダー(1ポンド以下)で売却された来歴を持つ本作の最も大きな謎のひとつである、『誰を描いたものであるか?』ということに対し、理想化された人物であるとする説や、フェルメールの娘のひとりを描いたものであるとする説など諸説唱えられているが、そのどれもが現在も確実な根拠を持つには至っていない。なお1668-69年頃に手がけられたと推測される本作と同様、人物の頭部を描いた作品『少女の頭部』がメトロポリタン美術館に所蔵されている。